1931年、今西錦司をはじめとする京都帝国大学旅行部の現役、OBは、 それまでの国内山行にあきたらず、海外遠征を計画していた。
そして目標をカブルー(7338m)におき、1932年の実現にむけて、準備を開始した。
そのとき遠征隊の母体組織が必要になり、創設されたのが、AACK(Academic Alpine Club of Kyoto)である。
(※創設当時は
Akademischer Alpen Culb zu Kyoto とドイツ語表記だった。京大学士山岳会の名称は戦後つけられたものである。)
当時は会員数も二十数人であった。その創設のいきさつからも分かるように、
AACKはヒマラヤ初登頂を前提として作られた。
当時から会員も京大出身に限定せず、 志を同じくする者の会であった。
戦争のためにカブルー計画は実現しなかったが、会の結成は遠征登山のきっかけを作った。
'31年1月富士山の極地法による冬期登山など準備をかさね、 '35年冬期朝鮮最高峰白頭山(2744m)の登頂に成功する。 以後、蒙古、満州へ会員の活動の範囲は拡がる。 '36年加藤らは中部大興安嶺最高峰(1800m)の冬期初登頂、 '37年加藤は単身内蒙古、'38年木原、今西ら内蒙古調査などが続いた。 しかし戦争はきびしくなり、以後AACKは開店休業の形で敗戦をむかえる。 '40年には旅行部が軍から解散命令を受けている。
旅行部、AACKはそういう状態で あったが、会員は
'39年に創設した京都探検地理学会を母体として探検活動を続けた。
'40年梅棹ら白頭山、
'41年今西(寿)らカラフト犬そり探検、同年今西(錦)らポナペ、そして
'42年今西(錦)ら13人北部大興安嶺など、枚挙に遑がないほど海外遠征を行っている。
主体はAACKではないにしろ、軍部のしめつけの中、ヒマラヤを常に視野にいれて、
海外へその活動を広げた動きは、自由を求めた精神の具体化であり、これがすべて
戦後のAACKの学術登山活動につながっている。
戦後の混乱期を経て、 '51年西堀はネパールに入り、マナスルの許可をとるが、 このときまだAACKは再建されていない。再建されたのは '52年春である。マナスルは日本山岳会に移譲されたが、 '53年にはAACK初のヒマラヤ遠征隊(今西寿雄隊長)をアンナプルナ2峰に送った。 当初予定の南面からのルートが悪く、目標をアンナプルナ4峰に変更し、 頂上まであと一歩まで迫ったがジェットストリームにテントを破られ、 惜しくも登頂はならなかった。
'53年エベレストが初登頂され、ヒマラヤ登山の全盛期を迎える。 AACKも、 '58年チョゴリザ(7654m)、 '60年ノシャック(7492m)、 '62年サルトロ・カンリ(7742m)と立て続けに初登頂に成功する。 印パ紛争やネパールのヒマラヤ登山禁止などにより空白期間の後、 '73年ヤルン・カン(8505m)に初登頂してわが国の最高峰初登頂記録を作る。 さらに未踏峰を求めて舞台は中国に移る。 '82年カンペンチン(7281m)、 '85年中国同志社大合同でナムナニ(7694m)と初登頂と続ける。さらに '88年コンロン山脈、6903峰と初登頂を続ける。一方 '88年秋梅里雪山偵察隊 '89年秋日中合同第1次梅里雪山登山隊を送ったが登頂はならなかった。'91年冬には梅里雪山で日中合同17人が雪崩で遭難死するという惨事を引き起こしている。
初登頂記録のほかに、学術面での功績も多大である。 '90年シシャパンマ(8008m)にヒマラヤ医学学術登山隊を送り、登頂に成功し、学術調査面でも多くの成果をあげた。
この間、AACKと密接な関係のある京大山岳部もヒマラヤ初登頂を続けた。すなわち、 '62年インドラサン(6221m)、 '64年ガネッシュ、 '74年K12(7473m)、 '85年マサコン(7200m)等などである。
このほか会員が種々な組織の隊の隊員や隊長として 初登頂した数は限りない。 その一例をあげると '56年マナスル(8125m)、(今西寿雄登頂) '57年から今日までの南極観測(西堀、北村など多数) '62年ヌプチュウ(7028m)(中尾佐助隊長)、 '63年スカルノ峰(5030m)(加藤泰安隊長他)、 '76年シェルピカンリ(7380m)(平井一正隊長)、 '86年クーラカンリ(7380m)(平井一正隊長)、 などがあり、また会員の学術調査の足跡は世界のほとんどの地域をカバーしており、 まさに世界の探検登山をリードしてきたと言っても過言ではない。
Annapurna Ⅱ (7,937m)
アンナプルナ2峰
隊長:今西壽雄1953年、AACK初のヒマラヤ遠征隊(今西寿雄隊長)をアンナプルナ2峰に派遣。 当初予定の南面からのルートが悪く、目標をアンナプルナ4峰(7,525m)に変更し、 頂上まであと一歩まで迫ったがジェットストリームにテントを破られ、 惜しくも登頂はならなかった。
Kaberi Peak (6,950m)
カベリピーク
1958年8月5日初登頂初登頂者: 山口克、中島道郎、高村泰雄
Kondus Peak (6,758m)
コンダスピーク
1958年8月3日初登頂初登頂者: 加藤泰安、今川好則、潮田三代治
Saltoro Kangri (7,742m)
サルトロ・カンリ
京大学士山岳会とカラコラム・クラブにより構成された、 日本パキスタン合同サルトロ・カンリ遠征隊が 1962年7月24日に初登頂した。
総隊長:四手井綱彦
副隊長:加藤泰安
登攀隊長:林 一彦
初登頂者:斎藤惇生、ラジャ・バシール、高村泰雄
Ganesh=Annapurna S. (7,256m)
アンナプルナ南峰 ガネッシュ
京大山岳部が1964年10月15日初登頂
隊長:樋口明生
副隊長:上尾庄一郎
初登頂者:上尾庄一郎、ミンマ・ツェリン
Peak K12 (7,437m)
京大山岳部が1974年8月30日初登頂
隊長: 岩坪五郎
副隊長:金山清一
隊員:
高木真一、
伊藤勤、
奥哲
学術班:能田成
医学班:川合仁、岩坪昤子
初登頂者:高木真一、伊藤勤
Peak CB31 (6,096m)
京大山岳部が1982年8月11日初登頂
宗森行生、宮坂実、木村哲郎、竹田晋也、
N. S. Raman、Tikan Ram
Kula Kangri (7,554m)
クーラカンリ
神戸大西蔵学術登山隊が1986年4月21日初登頂隊長: 平井一正
Kunlun (6,903m)
コンロン
Muztagh Ata (7,546m)
ムスターグアタ
京都大学ヒマラヤ医学学術研究計画
(Kyoto University Medical Research Expedition to Himalaya、略称: KUMREH)と
の第1次隊として医学学術登山隊を派遣した。
隊長:松沢哲郎
Xixabangma (8,027m)
シシャパンマ
京都大学ヒマラヤ医学学術研究計画
(略称: KUMREH)の
の第3次隊として、シシャパンマ隊を派遣。合計22名が8,000m峰の登頂に成功し、学術調査面でも多くの成果をあげた。
総隊長:戸部隆吉
Meili Xueshan (6,740m)
梅里雪山
1991年1月3-4日に日中合同17人が雪崩で遭難死する。
1996年にその再挙をかけた学術登山隊が派遣されたが、登頂には至らなかった。