2005−9−1

崑崙山脈未踏峰6,345m登頂報告

伊藤寿男(1959年入部)記

昨年9月の崑崙偵察時(2004/10/29付AACKホームページご参照)に見付けてきた6,345mの未踏峰を、本年8月1日に、隊員4人全員が、同時に、元気に登頂してきたので概略報告いたします。

1 期間: 2005年7月14日(先発隊出発)〜8月10日(後発隊帰国)

2 メンバー: 隊長  伊藤 寿男(1959年入部 66歳)
        副隊長 前田 栄三(1964年入部 61歳)
            泉谷 洋光(1964年入部 61歳)
            栗本 俊和(1969年入部 56歳)

3 対象の山: タクラマカン砂漠の西南端の町イエチェンを起点に、チベットのラサへ向かう「新蔵公路」の、奇台逢坂(峠)を下り切った地点から公路を離れ、砂漠の中を東に直線距離にして約16キロのところにこの山は在る。正確には 北緯35度41分、東経79度40分 に位置する 高さ6,345mの独立峰である。 周りの6,000m級山群の中で一番高い。
我々平均年齢61歳の熟年登山隊にとって、高度的にややきついが、時期を選べば技術的にはさほど困難では無かろうというのが昨年の結論であった。ただし、地理的には、人力はおろか、馬もロバも、らくだも、手配は無理で、全て我々の手でボッカせねばならないという難点があった。
右折する広大な谷間の奥に鎮座し、残念ながら新蔵公路からその雄姿を見る事は出来ない。

4 行動記録(文中の高度表示は伊藤個人の高度計による数字で正確なものではない):
   7/14 前田、泉谷組成田発 ウルムチ泊
    /15  ―― 〃 ――  カシュガル着
    /16  ―― 〃 ――  タシュクルガン泊(高度順化)
       伊藤、栗本組成田発 ウルムチ泊
    /17 伊藤、栗本組カシュガル着、夕方、前田、泉谷組と合流
      エージェント Kashgar Mountaineering Association (KMA)のDirector Keyoum Mohammado, 連絡官シディック、運転手ケヨンおよびエルケンと顔合わせを行う。この3人に、我々で手配したお馴染の蒙古族の通訳、バートルを加えた4人がこれからの長い付き合いとなる。
    /18 カシュガル(1,330m)→→イエチェン(1,385m)
      いよいよ4駆による移動の開始。今後の極めて重要な我々の足となる。昨年の偵察時の体験から、性格のいい運転手と、性能のいいランクル2台を予め指定してある。とはいってもA車は新しく見えるが、走行15万キロ、B車は35万キロという代物。長い道中の無事を祈るのみ。
      途中、刃物の町エンギサルや、オアシスの町ヤルカンドを見物したり、砂漠の中の石油基地を横目で見つつタクラマカン砂漠の西端を南にひた走る。シャワーが出る最後のホテル、イエチェンの石榴賓館に泊まる。これから当分シャワー無しの生活となる。
    /19 イエチェン→→クディ(2,940m) 途中アカズ峠 (3,300m)越え
      食料買い出し、積み込みをして昼頃出発。アカズ峠では手前より下車して1時間ほど歩いて高度順化を行う。今回は曇天のため、白嶺累々の崑崙の山並みは見えず。一路クディに向け駆け下りる。クディは10年一日の如く昨年と全く変らない。朝、北京時間の8時頃明るくなり、夜22時頃暗くなるのが、このシーズンの、この辺りのパターンである。
    /20 クディ(2,940m)→→マザ(3,715m) 途中セラク峠(4,840m)越え
      村の出口にある軍の関所は、今年はすんなりと通してくれた。B車が、常時ブレーキが掛かった状態だとかで修理に小一時間を要す。道は両岸から岸壁が荒々しく迫ってくる。落石などあったらひとたまりもない。
      高度順化のため、セラク峠の手前から1時間かけて峠(4,840m)まで歩く。峠から下がりに下がって開けた所がマザ、K2への分かれ道でもある。昨年は、エメラルド色のヤルカンド河がゆったりと流れ、穏やかな小部落との印象をもっていたが、今回は、つい最近10年振りの大雨が降ったとかで黒ずんだ濁流が河幅一杯に流れ、強風が吹き荒れ、曇天の下、いかにもマザ(ウイグル語で墓場)といった感じである。無理をすれば三十里営房までいけるが、高度順化のため当初の計画通りここで泊まる。B車はここで修理(部品交換)をする。これでひと安心。
    /21 マザー(3,715m)→→大紅柳灘(4,265m) 途中ヘイカ峠(4,900m)越え
      午後になると融水で道路が分断されるとの情報で午前8時に出発する。夜明け前、ロバ2頭を連れて野営していた旅人が絶好のカメラアングルだったのでこれを撮りに行った後、出発前のみんなのSpO2値を測らねばと慌てたのが敗因で、私の新調したデジカメを落としてしまった。出発して1時間後に気が付いたがもう後の祭り、土地柄もう戻ってはこないだろう。私にとって、一生に一度の大遠征の、素晴らしい光景が撮れないのが悔しい。
      ヘイカ峠(4,900m)の手前より高度順化のために歩く。
      道路状態は昨年より悪い。ところどころ融水や土石が道路に流れ込み、迂回と凸凹を余儀無くされる。三十里営房でギヨウザの昼食、この間にB車の大修理をやる。2時間を要す。早く出発してよかった。
      大紅柳灘には18時前に到着。向かいの山壁に西日が反射して真昼の如く明るい。昨年馴染みの招待所 「蘭洲快餐店」 に荷を解く。招待所とは聞こえがいいが、平屋のバラック建て、コンクリート土間に木製簡易ベットが数脚あり、これにマットと煮しめたような掛け布団が載っているといったまことにお粗末な汚い簡易宿泊所である。これが山を下りだす頃になると、なんとも居心地のいい快適な場所に思えてきたものである。
      今日あたりから、下痢や腹の調子の悪い者が出始める。連日の休み無しの行動と高度の影響によるのだろう。今まで90台であったSpO2の値が、今夜栗本の96を除いて全員85台を呈していた。
    /22 休養日
      当初からの予定の休養日にも拘らず、皆元気に飛び出していく。
      泉谷、栗本組は、昨年のBC跡までの偵察後アクサイチン湖往復。
      前田は、奇台逢坂峠から上部5,700m地点に上がり、めざす山域を偵察。
      伊藤は、昨年偵察した、大紅柳灘手前の広大な谷間に再度入り込み、6000m位の手頃な山を物色に出かける。
      夜のミーティングで泉谷より朗報あり、昨年のBC跡(5,240m)まで車は問題なく入れると。昨年より時期が早いので砂漠地帯がぬかるみ、車が奥まで入れないのではないかと出発前から心配していたのが杞憂に終わった。
      もう一点、当初BCをここより475m高い509道班(道路工事作業員用の飯場)に考えていたが、ここを今日通過した際、チェックしたかぎり、人の出入りが頻繁で落ち着かないし、ベットでなく土間に寝る事になるなど快適さにも欠ける。それよりも快適で馴染みの出来た大紅柳灘にしたら如何かとの提案があった。大紅柳灘をBCとすると、BCとABC(5,400m)との高度差約1,135mに問題あるが、快適なBCに勝るもの無しと大紅柳灘をBCとする事にした。
    /23 大紅柳灘BC(4,265m)→→ABC(5,440m)往復 奇台逢坂(5,110m)越え
      栗本は下痢のため、またバートルは風邪のため、今日1日休養。
      泉谷がバートルに替わってABCまで道案内をかってでる。居住性とセキュリティに難点のある509道班を通過し奇台逢坂までダラダラの登り。峠を下り切った箇所から左側(東)の砂漠地帯に乗り入れる。昨年の偵察時の轍まで残っており、スタックも無く快調に旧BC跡地(5,240m)を目指す。ただ今年は谷間の水量多く、昨年の如く右岸に渡れず、車は左岸沿いに追い上げられていき5,440mが限界、ここをABCと決定する。
      ここまで車が入っただけでも御の字である。ただし、ABCからは目指す山は見えない。谷が大きく右に湾曲しているためである。泉谷と、昨年より大幅に水量の増えた流れを渡って右岸に出る。見えた!! 1年振りに見る山がどっしりと正面に構えている。泉谷と顔を見合わせる。沸々と登行意欲が湧いてくる。時期が早いため雪線も低く山全体が雪のため白く大きく見える。ABC決定後、泉谷と高山病のB車の運転手は、静養のため早々にBCに下りた。
      伊藤は、一人上部に偵察にいった前田を、目印岩まで登って仮眠しながら待つ。霰がぱらつき、雷鳴がなる中、5,550mまで登りC1予定地を見上げて来たと前田が元気に下りてきた。彼のはやる気持ちは良く判る。今日初めて、対象の山に見参したのだから。昨年は、ついそこの旧BCまで来ていながら見る事が出来なかったのだ。
    /24 BC→→ABC→→C1(5,800m)→→BC
      前田は休養。 
      今日もA車は不調、粗悪なガソリンを買わされ、時々水抜きを強いられ、これに小1時間を要す。ABC(車の到達点)の設営を連絡官シディックと運転手達に任せ、我々3人とバートルはC1予定地まで共同装備の荷上げを行う。若く(我々に比し)体力のあるバートルにもC1までのボッカの戦力になってもらう。これを見越して彼には、年初より、私のセコハンの大型ザックと登山靴を与えてあった。彼は期待通り、以降大きな戦力になってくれた。 
      昨年に較べ、融水が流れ、ところどころぬかるむ広大な谷間を、5,800mのC1予定地目指して各自思い思いのペースとルートで登る。途中から所々雪田が出てきて、これを辿る者もいる。C1予定地に着く。泉谷と伊藤にとってはここが昨年の最高到達地点である。昨年と異なり周りには雪があり水の心配はない。高度順化のため1時間ほどいて下る。
      ABCは、シディックにより、大きなメステントと3張りの宿泊用の小テントおよび資材置き場が作られていた。ABCはそのままにして全員BCに下る。
      夕方、大紅柳灘は、何時の間にか軍隊の車と軍人で溢れ、我々の宿舎でも兵隊がマージャンをしたり飯を食ったりしている。夜間、誰かがたれ込んだのだろう、MPがやって来て栗本が彼らの面前で眺めていた我々の地図とパスポートを出せと要求される。旧ソ連軍作成の地図とわかり結果として事なきを得た。国境の近くにいる事を、そして我々の平和ボケを実感する。
    /25 BC→→ABC→→C1設営→→ABC
      隊員4人に、バートルとシディックにも担いでもらって共同装備、食料をC1へ荷上げする。シディックは快ピッチで登ったためC1でのびてしまった。テント2張を設営してABCに戻る。ここで出されたメロンの美味かったこと。
      この日の夜のSpO2値は栗本の85以外は皆70台。じわじわと高度の影響が出始めている。夜のミーティングで、明日は、ABCに戻ってくるよりも、我々にとって未知であるC1より上部の偵察に時間を掛けるべく、全員C1泊まりに変更する。夜半より風強し。
    /26 ABC→→C1 上部ルート偵察
      朝方、晴れているが風強く気温低い。テント内のボトルの水に薄氷が張っている。
C1まではもうすっかり通い慣れたルートであるが、出発が早いのと寒気のため、渡渉する川の跳び石の上面が薄氷で覆われており、渡渉に難渋する。それでも正午過ぎにC1に着く。
      いよいよここからは未知の世界である。がらりと様相を変え、急に傾斜を増し雪と岩の世界になる。早く身支度が出来たので私1人先行する。テントからすぐ岩と雪のミックスとなるが、アイゼンがよく効きどんどん高度を稼ぐ。しんどいが、昨年偵察時にも感じた、人類未踏の地に足を踏み入れていく昂揚感を感じる。想像していたよりも危険な登りではなく安心する。やがて前田と栗本が私を追い越していった。彼らも同じように昂揚感を味わっていることだろう。上のこぶまで登って下りてきた。心配していた下りであるが、着実に下ればそれほどピンチなことはない。ただし、雪は締まっておらず、ピッケルのシャフトを突き刺すとストンと50cmほど入って岩に当り、セルフビレイのピンとしては甚だ心許ない。今後上部でビレイを取る事態が無い事を祈りながらC1に戻った。
      夜, ABCのバートルとトランシーバーによる交信を試みるが全く駄目。
      私は昨夜来飯が食えず、横隔膜が痛い。眠れぬままに、不安定なビレイピンの事が気になり、いっそのこと左側の大雪面をひたすら延々と詰め上がるほうが安全かなとも考えた。明日上部の雪の状態を見て判断することにした。
    /27 C1→→上部ルート偵察→→C1
      風も無く気温も高い。4人空荷で上部偵察に出る。
      私は朝飯が食えず力がはいらない。泉谷のピッチも遅い。考えてみれば2人とも完全な休養をとっていない。6,060mの前衛峰を超え、6,120mまで尾根通しに登る。元気な栗本が先行する。彼は、未踏の地をトレースする快感を味わっている事だろう。滅多に無い経験だ、十分に味わってくれ。
      ここまで登るとピークに至るルートの全貌が見えてきた。案ずることはない。左からの雪稜とのジャンクションピークまで、このまま尾根通し問題無く行ける。ややこしい登攀用具の出番は無さそうである。ジャンクションピークから本峰まではなだらかな雪のプラトーが続く。本峰は見えないが、あのプラトーの奥にこんもりと鎮座しているのだろう。
      目途はついた。14時下山を開始する。きついせいもあり、泉谷、伊藤は慎重に慎重にゆっくりと下る。17時20分、C1のテントに倒れこむように入る。私は、今日1日大変しんどかった。バートルが担ぎ上げてくれたメロンを一口食ったが吐きそうになる。完全な高山病である。3日間あまり食ってないのだから当然だろう。ダイアモックス、紫苓湯、ヴァーム、アリナミン、アスピリンを一度に飲んで寝る。私だけが体調不調で悲観的にもなったが、明日、明後日に予定されている2日間の休養日に賭けようと気を取り直した。
    /28 C1→→BC
      今日はBCに下りるのみ。全員いまや無用となった登攀用具を持って下りる。私は依然として食欲が無い。通いなれたABCへの下りが遠く感じられる。ABCで出された西瓜も食えない。車に倒れこんでBCへ。高度差1,535m、空気の濃さを痛切に感じる。皆は昼食を美味しく食ったそうだが、私はそのまま3時間爆睡した。
    /29 休養日
      10時まで熟睡した。食欲は無いが疲れは取れている。その後は、おやつのような小物を食っては寝、食っては寝、午後ゆで卵2個、夜食は気分を変えて隣の招待所で四川料理、その間は睡眠、いくらでも眠れる。
      20時30分のミーティング時には私の体力は完全に回復したと思った。ミーティングでは、当初のC1からのラッシュ計画はきついので、前衛峰を超えた地点にC2を設けここからのアタックとする。このためアタック日は早くても8月1日となった。就寝前の私のSpO2値は80台に戻っていた。
    /30 BC→→ABC→→C1
      今日はC1まで。
      ABCで食料と水ボトルを追加、これをバートルにも担いでもらって全員で三々五々C1に向かう。前田とバートルが快調。他の3人は相前後してC1に着いた。私も回復基調にあること自覚する。夜のSpO2値は栗本の88は例外として他の3人は72〜74。しかし私の食欲は依然として無い。
      夜間強風がテントを揺さぶる。
    /31 C1→→C2(6,010m)設営
      朝も食欲なし。個人持参の、取って置きのしゃぶしゃぶもちを味噌汁で流し込む。やっと胃袋にものが入った感あり。
      今日はC2設営の日。テント、ガスカートリッジ、バーナー、ザイル一本、食料など共同装備を荷揚げする要あり。最年長者なのでと、私は個人装備だけ荷揚げすればいいと皆が気を遣ってくれる。全員登頂という大目標を念頭に置いているのだ。有難さに胸が熱くなる。お陰さまで先日ほどのしんどさは感じられない。
      6,060mの前衛峰を越え、下りきったコルに格好のテント場があった。 C2(6,010m)設営後高度順化の為、更に、先日の最高到達点より上まで登る。我々の採るべきルートが明瞭に指摘できる。明日の好天を祈るのみ。
   8/1 C2→→頂上→→C1
      曇天、風やや強し。珍しく頂上は雲が流れ飛んで見えない
      アタックの緊張感は無い。雪はくるぶしが入るくらいで言うことなし。栗本がトップでどんどん登る。ルートは山の左側の大カールの上縁りを辿る。左のスカイラインをなしていた尾根とのジャンクション下の急な広い雪面で、前田がトップと入れ替わる。彼は小気味良いステップでジャンクションを目指す。大いに楽しんでくれ、ここに至るまでの数年間、相応の働きをしてきたのだから。ジャンクションは風とガスの中。ここからはなだらかなプラトーとなって頂上に至るはずだが、ガスで何も見えない。広い雪面を、前田は右側、私は真ん中、泉谷、栗本が左側から、風とガスの中をひたすら高みを目指す。下から見えた頂上とおぼしき岩群を右に過ぎても頂上の高まりが無い。頂上を踏めるという興奮の為か私はまったくしんどさを感じない。
      突然右側の前田から「伊藤さん、その先は落ち込んでいるから注意してください」と声が掛かる。ガスの中確かめると前後左右ここより高いところは無い。頂上であった。 打ち合わせどおり、一番高いと思われるところに直径1mの円を描き、アインス、ツバイ、ドライで4人同時に円内に足を踏み入れた。
      午前11時05分、当初から目指していた4人同時初登頂を果たしたのだった。「AAO!!」の儀式の後はお互い肩を叩き合って感激に浸る。ガスが時々途切れ、薄日さえ差すようになってきた。白き山々が累々と果てしなく連なる崑崙山脈の巨大さに圧倒され、畏怖の念さえ覚える。私は、日本から大事に持ってきた岳友岩瀬時郎君の遺影を取り出して、周りの景色を見せてやった。かって彼と志が同じことが分かって以来、共にこの頂きを目指してきたのだった。3年前、彼が大菩薩の登山口で急逝するまでは。(2002-may AACKニューズレター24号ご参照)
      35分ほど余韻に浸った後下山を開始した。ザイルは不要とはいえ、スリップしたらひとたまりも無い。慎重にC2まで下り、これを撤収、15時20分には無事にC1に着いた。ここからはアイゼンも不要の通い慣れた安全なルートである。もう安心である。泉谷とガッチリ握手を交わす。彼のこの1年間の鍛錬は目を見張るばかりであった。昨年は、この場所に息も絶え絶え辿り着いたのだった。
    /2 C1→→ABC→→BC→→三十里営房
      荷下げの為に11時に上って来る予定のシディックとバートルが9時に上ってきた。早々にパッキングしてゴミも当然の事ながら全て持って下りる。各自開放感に浸りながらのんびり下りる。ABCで出されたカシュガル瓜の美味かったこと、先日と違って5〜6切れ貪り食う。ABCを、来た時と同じように綺麗にした後乗車、心地よい疲労感に身を委ねながら砂漠地帯を一路BCを目指す。
この日は一気に三十里営房まで下りた。げんきんなもので私のSpO2は88に回復し、猛烈な空腹感に襲われた。
    /3 三十里営房→→クデイ→→イエチェン
      車は順調に走ったが、クデイの関所で、軍隊の車両が200台通過するまでストップさせられる。三々五々通過するため1〜2日の停滞を覚悟するが、バートルの頑張りで、我々のみ通過を許可された。

      暮れなずむアカズ峠から崑崙の山々に別れを告げ、夕闇迫るタクラマカン砂漠に向かって下り始めたとき、我々の崑崙が終わったことを実感した。

この後、カシュガルで、カシュガル山岳協会会長のケヨン氏と会った。彼は、我々に登頂証明書の発行を約すと共に、我々の希望を聞いて、山名を「YUME(夢)MUSZTAGH=ユメ ムスターク」と名付ける事に同意した。同協会から近々登頂証明書の送付があるはずである。
このあと、寄り道せずに帰国する前田、泉谷組と別れた。彼らは8月8日に帰国したが、伊藤、栗本組はカラクリ湖まで足を伸ばし、ムスターク アタ、コングールの巨峰を眺めてきた。ウルムチ、トルファンなども見物して8月10日に帰国した。

5 特記事項(まだ反省会を行っていないので、手前味噌ながら全員同時登頂できた理由を思いつくままに列挙する)
 1、見付けてきた山が、たまたま技術的に困難な山でなく、丁度我々熟年向きの山であった。
 2、時期的にも良かった。天候にも恵まれた。一度も寒いと感じた事が無かった。
 3、固定観念を捨て、BCをテントではなく接待所に設けたことは、肉体的、精神的に大変楽であった。臨機応変にC2を設置したのも良かった。
 4、2日半の休養日も含めて高度順化には十分に意を用いた。
 5、メンバーに恵まれた。各自共通目標のためにベストを尽くした。
 6、小規模遠征として4人編成は最適であった。

<さいごに>
今回の遠征は、国内の個人山行の延長といった意識で、それほど身構えずに気軽に出かけたものである。この身軽さ感覚は何処から来たかというと、我々がAACKの中で育ってきたからだと思う。こと崑崙についてみても、先輩諸氏の記録が山ほどあるし、ちょっと京都に電話して崑崙に行ってきた人の話をじかに聞いたりすることも出来る。AACKにいるお蔭で、遠征とか、崑崙とか、世間では浮世離れした事象が、ごく身近に存在する環境の中にいたからである。AACKの有難さをしみじみと感じた遠征であった。

今後、大規模な学術遠征隊もいいが、我々のような、気の合った者同志の、私的な小規模貧乏遠征隊がどんどん出てきてもいいのではなかろうか。


最後に、ドクター不在のわが隊において、貴重なアドバイスや効能リスト付きの薬品の数々の存在が、どれほど心強かったことか、斎藤Y先生に改めて御礼申し上げたい。
また山岳共済の導入にご尽力下さった木村会長や吹田啓一郎氏、現在もまだボランティアで共済の窓口をやってくださっている阪本公一、堀内 潭の両氏(特に阪本氏には、保険のみならず今回の遠征について真摯なアドバイスを数々頂いた)、面倒な留守本部を快く引き受けて頂いた田中昌二郎氏、貴重な情報を提供いただいた新井 浩氏、2月の八ヶ岳で氷壁技術を指導してくださった睦好正治氏、筑波大学低圧室でご指導賜った浅野、西俣両先生と学生諸君、その便宜を図っていただいた安仁屋政武氏、その他今回の遠征でお世話になった多くの皆様、特に、我々を快く送り出してくれた職場の皆様、そして愛する家族達に深甚の謝意を申し上げたい。

併せて、故岩瀬時郎君のご尊父から我々に賜ったご寄附を、「岩瀬基金」と名付けて、共同装備、その他の購入に有難く活用させて頂いた事もご報告申し上げます。

ABC 上部より望む6,345m の未踏峰
「新蔵公路」 未踏峰の山を目指して
ABC (5,440m)にて
C1(5,800m)とC2(6,010m)への取付尾根
C2 より頂上を望む(ピークは奥まって見えない)
頂上(6,345m)

以上