ビアフォー氷河・ヒスパー氷河トレッキング

(2006年6月24日 - 7月24日)

阪本公一


 今年6月24日 - 7月24日の約1ヶ月、パキスタン・カラコルムのトレッキングに行ってきた。
 行き先は、世界で4番目に長いといわれるビアフォー氷河からスノーレイクにいたり、ヒスパー・パス5,151mを越えて、世界で5番目に長いヒスパー氷河をおりて、フンザまで歩くという、約120km強の氷河の山旅。

 メンバーは、高野昭吾さん(1954年入部、72歳)、堀内潭さん(1960年入部、66歳)、岡部光彦さん(元京都山岳会、64歳)と私(1960年入部、66歳)の4名。

 この二つの氷河は, 1892年にイギリス人のマーテイン・コンウエイにより初めて探査された。その後、今西錦司さんや中尾佐助さん達が1955年に日本人として初めて踏査された(世界では5番目)、カラコルムでは由緒ある氷河ルートである。
 若い時に、今西錦司さんの「カラコルム」、そしてコンウエイの「カラコルムの夜明け(吉沢一郎訳)」を読んで胸を躍らせ、一度は歩いて見たいと憧れていた2大氷河である。
 2000年8月にラカポシで亡くなった岳友須藤建志君が「阪本さん、機会をみて一緒にスノーレイクを見に行きましょう。」と言っていたこの2大氷河を、彼の七回忌追悼を兼ねて歩いてきた。

 トレッキングの出発地であるアスコーレを6月30日出発。ビアフォー氷河は非常に美しい氷河である。マンゴを過ぎると、泥や瓦礫で汚れたモレーンは、氷河の両脇に押しのけられて、ビアフォー氷河の中央部は純白の美しい氷河となって、スノーレイクまでつづく。通常はアスコーレから5泊6日で標高約4,750mのスノーレイクに行く氷河コースであるが、私たちは年寄り隊なので、高度順応を兼ねてバインタで3泊して(1日はバインタ・ルクパール氷河を登りラトック山群の観察、もう1日は完全休養)7泊8日でスノーレイクまで行った。そのお陰か、隊員は誰も高度障害に悩まされることはなかった。

 ビアフォー氷河は、幅の広いところでは3-4kmはあろうか? 遠くから眺めると、まるで車で走れそうな舗装道路のように見えるが、歩いてみると無数のクレバスが走っており、氷河の表面には昼中は清い水が勢いよく流れている。
 ガイドのサデイックに言わせると、バルトロ氷河や他のカラコルムの氷河はどれもこれもモレーンで汚れており、ビアフォー氷河のような純白の氷河は他にあまり見られないとのこと。

 ビアフォー氷河の両岸には、数多くの6,000m台の未踏の無名峰が連なって聳えている。
バインタを越えると、左岸にかの有名なラトック1峰7,145m(1975年に原眞隊長のJAC東海支部隊が試登後、1979年に高田直樹隊長の京都カラコルム隊が初登頂)、その左にラトック2峰7,108m(1977年イタリア隊初登頂)、その右にラトック3峰6,949m(1978年に原眞隊長の東海支部隊が試登。翌年1979年に故高見和成さん達の広島山の会が初登頂)、更に右奥に4峰6,455m(1981に年大宮求隊長の山岳同志会が初登頂)等、日本と縁の深いラトック山群の恐ろしく厳しい鋭峰が並ぶ。
 その北には、スノーレイクの盟主バインタ・ブラック7,238m(別名オーガ)が聳える。1977年にイギリス人のクリス・ボニントンとダグ・スコット達が初登頂したが、登頂後頂上直下の振り子トラバースで両くるぶしを骨折したダグ・スコットを救出するため7日間の決死の下降をした話は、今も語りぐさとして伝えられている。

 スノーレイクの手前のカルホゴロからは、通常雪が非常に深く、クレバスも多くて、どの隊もラッセルで苦労すると言われている。カルホゴロからスノーレイク、スノーレイクからヒスパー・パスを越えてヒスパー氷河側のカニバサまでの2日間が、このトレッキングの勝負どころ。
 昔、ラトック1峰を試登後ヒスパー・パスに登られた原眞氏も湿雪の深いラッセルに苦労されたらしく、私たちの出発数週間前に「スノーシューか、スキーを持っていった方がよいのでは・・・」とのアドバイスをいただいた。検討結果、隊荷も重くなるので、この2日間は早朝出発又は深夜出発の方法で対処する方針で出発した。
 マルホゴロからカルホゴロを飛ばして直接1日でスノーレイクに行く隊も多いようだが、私たちは老人部隊なので、無理をせずカルホゴロからスノーレイクまで半日行程の計画とし、マルホゴロからスノーレイク間を2日かけてゆっくりと歩く行程計画とした。
 天候の先行きが何ともわからないので、ガイドのサデイックは、思い切ってカルホゴロから一気にヒスパー峠に登り、この際スノーレイクにもヒスパー・パスにも滞在せずにカニバサまで1日で行ってはどうかとのアイデイアをだしてきた。
 体力のある若い隊であれば彼の案も実現可能だろうが、私たち年寄りの体力ではカニバサまでの長路は余りにも厳しく、且つ午後になって腐った深雪となるヒスパー氷河の下山は好ましくないので、天候のことは運を天に任せ、当初予定通りスノーレイクで充分休養をとった後、深夜にヒスパー峠越えをすることにした。

 バインタ出発以来、連日の快晴続きの好天に恵まれ、ラッセルも殆どなく、カルホゴロから約4時間で、7月7日待望のスノーレイクに午前9時45分についた。
 スノーレイクは甲子園の何百倍と思われる広大な大雪原で、6,000-7,000mの山々に囲まれた白銀の盆地。まさにメルヘンの世界。余りにも素晴らしい風景に陶然となる。

 スノーレイクからヒスパー・パス5,151mへは、斜度20-30度ぐらいの割と緩い傾斜の3−4段になった雪の斜面。昔、今西錦司さんがテレマークで峠から滑っておりたという。スノーレイクにテント設営後、10時45分に出発して、ガイドと隊員2名で、運動靴のポーターの為に、その日のうちに5,000mまでトレースをつけた。雪はしっかりしまっており、キックステップで靴が少し沈む程度の最高の状態。標高5,000mまでの傾斜のきつい核心部までトレースをつけることが出来、明日の峠越えの見通しがほぼついて、午後2時にテント地に帰着した。
 翌日7月8日、早朝の午前3時にスノーレイクのテント地を出発。昨日のトレースをたどって、しまった雪面を楽に登り、朝6時にヒスパー・パスに着いた。峠の手前で見た、朝焼けのバインタ・ブラックは実に印象的であった。

 ヒスパー・パスからヒスパー氷河におりると、傾斜が10-15度位のダラダラした長い長い下りの雪面がつづく。時々ヒドン・クレバスがあり、隊員1名とポーター1名が胸のあたりまで落ち込んだが、アンザイレンして行動していたので事なきを得た。快晴の強い太陽はあつく、かなり消耗して、次の泊まり場のカニバサに着いた。

 ヒスパー氷河はカニバサまでは純白の氷河だが、カニバサ氷河が合流する近辺から下流は、泥と瓦礫で汚れたクレバスだらけの幅広い氷河となって延々とつづく。カニバサから5日かけて(1日は休養)、7月13日にヒスパー村へ到着。ヒスパー村の少し上流でヒスパー氷河は舌端となっており、そこからはヒスパー川の濁流となる。

 ヒスパー氷河の右岸には、7,000m台の魅力的な高峰がつづく。
 1981年に千葉工業大学の坂井広志さん達が第2登されたカンジュート・サール7,760mがカニバサ氷河の奥に聳える。
 ユトマル氷河の出合いからは、1979年に北海道山岳連盟隊が初登頂したプマリ・チッシュ7,492mの秀峰が望まれた。
 ビタンマルでクンヤン・チッシュ7,852mに5回目の挑戦をしておられる飛田和夫隊長の率いる同人バハール隊BCを訪問した。雪の状態が悪くて、今年も登頂出来なかった由。
 クンヤン氷河を渡りきった少し下流から、クンヤン・チッシュ主峰7,852m、南峰7,620m、西峰7,350mの人を寄せ付けないような厳しい山容が前山の向こうに頭を覗かせていた。
 ヒスパー氷河の左岸にはヒマラヤ襞をつけた6,000m台の未踏の無名峰の連山が、ヒスパー・パスから延々とつづいている。近い将来、これらの魅力的な山々も登頂される日が来るのであろうか?

 18日間の予定でアスコーレを出発したが、好天に恵まれ、予備日2日を残し(合計16日間)、7月14日にフンザに到着し、私たちの氷河の旅は無事終わった。過去5度このコースを歩いているガイドのサデイックも、今回のように連続7日間の快晴に恵まれたのは初めてという。全くラッセルのない、ヒスパー・パス越えも彼の経験では極めて珍しいとのこと。

 フンザ・カリマバードからは、ミック・ファウラーとヴィクター・ソンダーズが初登攀したスパンテイーク7,027mのゴールデン・ピラーが左に望まれ、正面には北杜夫の「白きたおやかな峰」で有名になったデイラン7,266m、そして一番右にはどっしりとしたフンザの名峰ラカポシ7,788mが、ホテルのベランダから眺められた。

 余った予備日を使い、1日はウルタル2峰7,388mのBCへハイキング。難攻不落だったウルタル2峰は、1995年山崎彰人さんと松岡清司さんの二人により、アルパイン・スタイルで初登頂された。初登頂後に何日も飲まず喰わずで必死の下山をしてきた二人のうち、山崎彰人さんがBC直前で疲労衰弱死された。岐阜大学で同期だった鈴木幹夫さんの依頼を受けて、ウルタル2峰BCの茶店「レデース・フィンガー・レストラン」前の大岩に立てかけてある山崎彰人さんのレリーフにお参りをし、般若心経を唱えて法要を行った。
 BCからは、フンザ・ピーク6,270mの下に聳える針のように尖った岩塔レデース・フィンガーが望まれる。山崎彰人さんのレリーフを持って翌年追悼にきたパートナーの松岡清司さんが、山崎夫人達と別れた後一人でレデイース・フィンガーを登りに出かけ、岩雪崩で不幸にも亡くなられたらしい。何か、人間の運命のはかなさを感じさせられる。

 フンザ到着後、ずっと曇り空でラカポシは姿をあらわさなかったが、フンザを明日出発して帰国すると言う最後の日に、幸運にも快晴になった。ラカポシは、フンザ川から標高差約5,500mの上の紺碧の空に突き刺すように聳える。神々しい名峰ラカポシを仰ぎ、般若心経を唱えて故須藤建志君の七回忌追悼を行った。

 年寄りにはいささか厳しいコースではあったが、全員の体調もよく、珍しい程の好天にも恵まれ、予定通り氷河の山旅を無事終えることができた。ラカポシで眠る岳友須藤建志君が、きっと我々の安全を見守ってくれていたのであろう。
 トレッキング中、他の隊にも全く出会わなかった。アスコーレから出発したオランダ隊は悪天の為スノーレイクにも到達出来ず引き返してきたらしく、又フンザから出発したアメリカ隊はカニバサでポーターのストライキのためにヒスパー・パス越えを断念して撤退したという。我々の隊が、どうも今年ヒスパー・パスを越えた最初のトレッキング隊だったようだ。

 珍しい程の連日の快晴に恵まれたので、ビアフォー氷河、ヒスパー氷河を取り巻く数多くの秀峰を眺めることができたのは、本当にラッキーであった。
 毎日笑いの絶えない和気藹々の雰囲気の中で、最高に楽しい氷河の山旅を満喫することが出来た。

ビアフオー氷河に入ってすぐ左岸に見えるボラー(6,294m)と左の無名峰。
ビアフオー氷河。昼中融けた水が川となり、クレバスに消える。
ビアフオー氷河の底なしクレバス。
ビアフオー氷河の支流バインタ・ルクパール氷河(右手の氷河)の奥に
聳えるラトック1峰7,145m(左)とラトック3峰6,949m(右)
翼を広げたようなバインタ・ブラック7,283mと手前の無名峰。
ソスブン・ブラック6,413m(左)と無名峰。真ん中のソカ・ラは1937年
にシンプトンが北ソスブン氷河へ越えた。
ビアフオー氷河からスノーレイクに入る。
スノーレイクより、ヒスパー・パスを望む。
ヒスパー・パスの手前よりスノーレイクを見下ろす。
朝日に輝いているバインダー・ブラック7,283m。
ヒスパー・パスにて。背景の山はヒスパー氷河左岸の未踏峰。
ヒスパー峠よりヒスパー氷河右岸の未踏峰を望む。
ヒスパー氷河を約2時間ほどおりたところから、ヒスパー氷河下流を
見おろす。
ヒスパー村のすぐ上のヒスパー氷河舌端。
フンザにある長谷川恒男学校。
シスパーレ7,611m(左)とパスー7,478m(右)
ウルタル2峰7,388m(一番右のピーク)とウルタル1峰7,329m。
夕焼けに輝くラカポシ7,788m。
ヤルよりダルミット氷河の奥に眺めるラカポシ7,788m。雪崩発生。
ラカポシからの大雪崩。

<ビアフォー・ヒスパー氷河トレッキング2006年行動記録>

以上