アフリカ縦断の旅
第2部

田中二郎

 1966年以来、40年間通いつづけたアフリカ大陸を縦断するのは、長年の夢であった。人類学の研究のためには、ひとつの村なり町なりに住み込み、長期間じっくりと腰を落ち着けて、人々の生活環境、社会のなりたち、人間関係、行動様式、世界観、自然観、呪術宗教、風俗習慣などなどを観察し、人々の中に溶け込んで、異文化を理解することが必須である。ある地点に照準を合わせ、対象社会の全体像を把握し、これを自文化およびその他の文化と比較することにより、人間理解を目指そうとする。したがって、長年アフリカに通い詰めても、行き先はどうしても狭い点に絞られてしまうのである。私は主としてカラハリ砂漠のブッシュマン(サン)を研究対象とし、70年代には、ケニア北部の遊牧民、トゥルカナ、レンディーレ、ポコットを調査研究の対象としてきた。比較のためにコンゴのピグミー、タンガニイカ湖畔のチンパンジーと焼畑農耕民トングウェ、ザンビア北部の焼畑農耕民ベンバ、マリ共和国のドゴン、モロッコのアラブの都市を訪れたが、これらはいずれも短期間の定点観測にすぎなかった。
 このたびの縦断計画の実現は、笹谷哲也べべさんの誘いによるものであった。「おい、ジロー、アフリカ縦断をやらへんか」と言い出したのは一昨年の秋のことだったと思う。私は即座に「よっしゃ、行こう」と返答した。

<第1部はこちら>

エトーシャ国立公園
 オヴァンボランドの南に隣接して、エトーシャ国立公園がある。ナミビア最大の国立公園であるが、ここの特徴は、全体のほぼ4分の1の面積を占めるエトーシャ・パンを擁することである。普段は干上がってひび割れの土が露出するこの平らな窪地は、夏の雨季に大雨が降ると、水はアンゴラ方面からオヴァンボランドを水浸しにし、さらに南下してエトーシャ・パンへと流入し、広大な湖へと変貌させる。周囲のサヴァンナは、モパネ林、アカシアの散在する草原に分けられ、ライオン、豹、チーター、ハイエナなどの肉食動物とともに、象、キリン、シマウマ、各種のアンテロープなどたいていの動物が見られ、観光のメッカとなっている。
 東側のゲートから入場した私たちは、ゲートのすぐ近くにあるナムトーニのバンガローに落ち着いた。夕方のひととき、目の前の池のほとりの見晴台に大勢の人だかりがしているのに惹かれて行ってみると、池の対岸には2頭の雌ライオンが悠然と寝そべっていた。すでに狩りを終えて夕食を済ませたのか、あるいはこれから連れ立って狩りに出かけるのであろうか。薄暗くなってきて双眼鏡でもよく見えなくなったので、私たちも引き返し、レストランへ晩飯を食べにいった。
 翌日は朝食後公園内の見物に出かけ、昼ご飯のサンドイッチを食べて帰ろうとすると、ズッパさんたちの車の屋根に異音が生じ、停まって点検する。なんと屋根に取り付けたルーフキャリアのネジが緩んで、ガタガタと大きな音を立てていたのである。プライヤーとスパナでネジを締め付け、私たちのできるだけのことはしたのだが、車体のフレームにかしめて留めてあったピンがはずれて、鉄板の支えが1本なくなっていた。これは素人には修理はむずかしい。宿舎の近くのガレージに持ち込んでメカに修理を依頼する。私たちがいつもカラハリの調査に使っているルーフキャリアと違って、今度借りてきたものは、スキーラックに毛の生えたようなちゃちな代物で、これに重いスペアタイヤ、ガスボンベ、ガソリン20リットル入りのジェリー缶を積んでいるので、かなりの無理があったのだろう。しかし、荷台に余分のスペースがないので、今後休憩のたびにスパナでネジの緩みを締めまししながら注意して走るしか仕方がない。

キリンとシマウマ
世界最大規模の国立公園の一つ、エトーシャ国立公園。シマウマとワイルデビースト(ヌー)の群れの中で草を食むキリン。背が高く首の長いキリンはアカシアの木の葉を食べるのは得意であるが、地面の草を食べたり、水を飲んだりするには苦労する。
木陰で昼食
道端の木陰にグランドシートをひろげ、食パンにハム、ソーセージ、トマト、キューリなどをはさみこんで昼食とする。(撮影:藤岡悠一郎)

カラハリ砂漠へ
 エトーシャから幹線道路を一気に南下し、首都ウインドフックで2泊休養とする。トヨタのディーラーでガラス屋を教えてもらって、窓ガラスを純正品に入れ替えてもらう。急ブレーキをかけたときに、ガタのきたルーフキャリアが前方へ吹っ飛んで落ちてこないように、荷造り用ベルトを買ってきて、後方へしっかりと引っ張って縛りつける。あとは、首都の中心部を買い物がてら見物し、ゆっくりと骨休めをする。
 9月23日、今日はボツワナ国境に向かって東へ300キロ、国境を越えてからさらに250キロのカラハリの町ハンシーに着いてガソリンを補給、最後に未舗装の道を100キロ走って、私や丸山の調査地ニューカデに到着した。
 昔はジンバブウェ、南アフリカを含め南部アフリカ一円に分布していたブッシュマンは、15世紀以来の黒人バントゥの南下と17世紀以降のヨーロッパ人のケープからの北上によって駆逐、同化され、いまではナミビア北東部からボツワナ西部にかけてのカラハリ砂漠にのみ、10万人ほどが残っているにすぎない。しかも、いずれのブッシュマンも、政府の近代化政策のもと、定住化を余儀なくされ、従来の狩猟採集生活を放棄し、生活様式を変えざるをえない状況におちいっている。
 私たちの研究対象であるニューカデの人々も、1997年に半強制的に本来の彼らの居住地、中央カラハリ動物保護区の中のカデ地域から、100キロほど離れた保護区外へと移住させられた。30人から50人ていどのグループで頻繁に移動しながら狩猟と採集の暮らしを送っていた人々が、いまニューカデの定住地で1千人を超える大集落の一員となって暮らすとき、生活も社会も大きく変わらざるをえないことは容易にお分かりであろう。動物は大集落の近くには寄りつかないし、採集すべき有用植物もあっという間に採りつくされた。政府は牛とヤギを提供し、トウモロコシ栽培を奨励したが、少数の家畜と、わずかばかりの降雨のためあまり収量の期待できない農業では、安定した生活は望むべくもない。定期的な食料配給と年金により、人々はなんとか食いつないでいるが、こうした依存的な暮らしは、けっして人々を自立的、意欲的な望ましい生活へと導いていくことはないであろう。
 見知らぬ大勢の人々との生活を嫌って、集落から10キロも離れて、ブッシュの中に小屋を建て、相変わらず罠猟やトビウサギ猟をして暮らす人たちが、何グループかいる。もちろん彼らとて、水は集落までロバで汲みに行き、配給の日にはちゃっかりと出かけていって食料を受け取ってくる。私たちはそうしたグループの1つの所へ行き、テントを張って泊まることにした。
 今回の旅行ではじめてテントを張るのであるが、私の運転する車の屋根から引き摺り下ろした4張りのテントのうち、2つはとんでもない代物であった。車と一緒にレンタルしてきたものなのだが、私たち夫婦が使ったテントはメッシュのもので、その上から掛けるべきフライシートが見当たらない。また、ズッパさんと藤岡君が使ったものは、6人用ぐらいで大きさは十分すぎるほどあったのだが、ポールの長さが合わなくて、きちんと張ることができなかった。借りる時にちゃんと試し張りをしておけばよかったのだが、あのときは、借りるべき細々としたものが多く、また手続きにも手間をとって、とても余裕がなかったのである。乾季の真っ最中のカラハリでは雨の心配はまったくなく、ともかくも2晩を過ごすにそれほど困ることでなかったのが幸いだった。
 翌日は、2人のハンターを伴って、彼らの罠の見まわりに出かけた。3キロほど車でブッシュの中を掻き分けて進み、木が立て込んできたので車を捨て、さらに徒歩で3キロほど歩いただろうか、2人分の20個ばかりの罠を見てまわったが、残念ながら今日の収獲は皆無だった。これだけの数の罠をかけておけば、スティーンボック(10キロぐらいの中型アンテロープ)の1頭ぐらいは獲れることが多いのだが、やはり獲物が少なくなっているのかもしれない。
 獲物がないので、ヤギを1頭買って、皆で食べることにした。われわれ8人ならほんの少しあれば足りるのだが、4分の3以上はこのキャンプの住人へのプレゼントである。あばらのところをばっさりと切り取って、焚き火の熾きの上でじんわりと焼く。塩コショウかマスタードに醤油をつけるか、久し振りのアフリカの味を楽しんだ。
 ここで2泊したのち、動物保護区の中の昔の住みかを訪れる予定を立てていたのだが、ここから保護区へ入るゲートはごく最近になって閉鎖されたことを聞かされた。では仕方がない、予定を1日早めてマウンの町で2泊し、ゆっくり休養をとることにしよう。暑いカラハリのテント生活は慣れない人にはなかなか大変な経験だったからである。

ニューカデでのキャンプにそなえ、道中でたきぎを積み込んでいく。(撮影:笹谷哲也)
母子2組
カラハリ砂漠のブッシュマン。母子がくつろいでいる。授乳は2才ぐらいまで続けられ、毒蛇やサソリなど危険の多い環境の中で、赤ちゃんはつねに母親の庇護のもとに過ごす。
ナベをかきまわす男
解体したヤギ肉の一部を鋳物の鍋で煮て、棒で突きくずしているところ。右手の鍋ではトウモロコシ粉の練り粥が料理されている。(撮影:藤岡悠一郎)
動物保護区のカデ地域より半ば強制移住させられたニューカデの定住集落。人々は25 m X 40 mのプロットに住まわされ、人口は1千人を超えた。(写真はアフリカ・センター研究員秋山裕之氏より借用)

ビクトリア・フォールへの道
 カラハリ砂漠の東縁を北上したリビングストンは、ザンベジ川に差しかかって、大きな瀑布を発見し、これにビクトリア・フォールの名を与えた。幅1701メートル、落差118メートルにもおよぶナイアガラに次ぐ世界第二の滝であり、いまや一大観光地となって、世界中からの客が引きをきらない。
 私たちは、マウンから東にナタへと向かい、そこで北上してザンベジ河畔のカサネまで600キロの道を一気に突っ走った。カサネはチョーベ川がザンベジ川本流に合流する地点にあり、象の大群で有名なチョーベ国立公園の入り口にあたる観光基地である。しかし、私たちは、10月11日にタンザニアのアルーシャからチンパンジー研究基地として名高いマハレ国立公園まで、チャーター飛行機を予約してあるので、ここでゆっくりしている暇はない。2週間のうちに長い旅を経てアルーシャにたどり着く必要があった。
 ビクトリア・フォールはカサネから約70キロメートル下流に位置するが、そこに達するルートは2つある。ザンベジ川の右岸を下って、一旦ジンバブウェの国境を越え、ザンベジ川にかかるザンビアとの国境の橋を渡り、リビングストンの町に達するか、あるいは、カサネのすぐ近くのカズングラでザンベジ川をフェリーで渡り、直接ザンビアに入国して、左岸沿いにリビングストンに至るかである。ビクトリア・フォールはジンバブウェ、ザンビアのいずれ側からでも容易に見ることができる。ホテルのマネージャーに聞いてみると、ジンバブウェを経由するには多額の車両輸入税をとられるうえ、2回国境を越えるのに時間のロスも大きいから、フェリーでザンビアへ真っ直ぐ行くのが絶対得策だと教えてくれた。道路はいずれもたいへんよく整備されているというので、私たちはマネージャーの助言に従って、カズングラからフェリーでザンビアに渡る。
 リビングストンのホテルにチェックインしたのち、私たちは国境の橋の側の駐車場に車を乗り捨て、遊歩道を滝に向かって散策する。ヒヒの群れが人懐っこくわれわれを眺めているが、サヴァンナのギャングといわれるこの猿たちはここでは観光客なれしていて、全くおとなしく、悪さをする気配はなかった。1キロ以上の幅をもつザンベジ川を一望することはできず、ゴルジュの突端から見えるのは100メートルを超える落差の滝のごく1部だけである。残念ながらいまは渇水期で、流れ落ちる水の量はそれほどでもないが、大きく切れ落ちた断層崖の自然の所作は、見る人の目を圧倒する。水しぶきには午後の日を浴びて大きな虹がかかっている。雨季の水かさが増したときには、滝の水は壮大に流れ落ち、対岸の小径を歩いていても合羽か傘が必要なぐらい水しぶきが降りかかってくるのである。

フェリー
ボツワナからザンビアに向け、ザンベシ川をフェリーで渡る。両国の首都ハボローネとルサカを結ぶハイウェイバスも最近運行されるようになった。およそ70 km下流にビクトリア・フォールがある。(撮影:笹谷哲也)
ビクトリア・フォール
ジンバブエとザンビアの国境は険しいゴルジュで仕切られている。幅1701 mにわたって流れ落ちる瀑布を一望することはできず、ほんの一部しか見られないが、100 メートルを超える落差は圧倒的である。

悪路のはじまり
 カズングラのフェリーポートへの分岐点に引き返し、ザンベジ川沿いに北上してモングに向かう。セシェケで立派な橋を右岸に渡ったところまで舗装が続き、1時間ほどで快調に飛ばすが、さて舗装が切れた途端、道はひどいことになる。ところどころに岩が露出し、そうかと思うと深い砂道になる。凸凹のひどさはもちろんのことである。四輪駆動を駆使し、時速2,30キロ、ときには歩くぐらいのスピードしか出すことができない。雨季になって泥道がぬかるんだら、とんでもないことになるだろう。コンゴ森林の中の道に匹敵するのではないか。村尾さんの調査地であるセナンガまでの200キロ強はおそらくアフリカでも最もひどい悪路の1つであることは間違いない。
 セナンガの少し手前に渡し場があり、小型のフェリーで左岸に渡り返す。私たちが渡った直後に軍隊の1団が到着したが、もう少し遅れていたら、あちらの軍用トラックなどが優先的にフェリーを使うに決まっているから、歯噛みしながら1時間ぐらいは待たされていたにちがいない。よいタイミングで渡し場を越えることができた。
 セナンガに着いてようやく舗装道路が現れほっとする。セナンガの小さなホテルに着いたのは6時前でもう既に夕暮れが近い。ズッパさんはウイスキーの水割りを飲むのに氷が欲しいとわめくが、田舎に来れば氷はちょっと手に入る見込みがない。
 翌30日、10キロほど北へ走ったところに村尾さんが調査している村があり、1時間ばかり見学していく。村尾さんは村長の親戚の人に世話になっており、小さな家を建ててもらって住んでいる。奥さんの手厚いもてなしを受け、村内の1部を見せてもらう。カラハリ・サンドの細かい砂粒の土地でキャッサバやトウジンビエを栽培する村人たちの農耕生活を、農学部出身の村尾さんは克明に観察し、分析しつつある。
 ここから200キロあまり北にザンビア北部州の州都モングがある。モングの町からはセナンガを南限にして広がるザンベジ川の氾濫原が一望できる。氾濫原は毎年雨季になると氾濫して大きな水溜りを形成することで有名である。またロジ王国の王宮がおかれていることでも多くの研究者の関心を集めてきた。ロジ族の人々はこの肥沃な氾濫原を利用して、農耕と牧畜、漁労の生活を送っている。ロジの王様たちは、乾季のいまは氾濫原の方に住んでいるが、雨季になり、下方が水浸しになると丘の上の王宮に遷都する。クオンボカと呼ばれるこの一大行事はいまや世界的な観光イベントとなっていて、遷都が行われる日には多くの人々が見物に押し寄せる。

女性を取り巻く子供たち
アンゴラから移住してきて、ザンビアの西端ザンベシ川左岸のセナンガに住み着いた人々。村尾さんが調査している村のオバサンと近所の子供たち。(撮影:笹谷哲也)

ガソリン危機
 モングでガソリンが入手できるかどうか、私たちは心配していたのだが、村尾さんがなにかと世話になっているJICAの方のご尽力もあって、無事満タンにすることができ、640キロを走ってルサカに到着する。月が替わって、10月1日となっていた。
 ザンビアの首都ルサカでガソリンがなくなるとは予想だにしていなかった。ちょうどわれわれが着く直前から、この非常事態は始まったようである。街中にたくさんあるガソリン・スタンドのどこもかしこもが長蛇の列であった。わずかばかりのストックを小出しにして売っているのを、みな延々と行列をつくって、運のよい人はいくばくかのガソリンを補給していく。このところの原油の高騰で、ザンビアでもガソリンを値上げしたいのだが、一気に3割も値上げすれば、暴動が起きかねないので、このガス欠は値上げ前の前哨戦だったようである。ズッパさんと私は2台の車で列の最後尾に並び、1日には夜9時から11時まで、結局その日は埒が明かず給油停止。翌2日は朝5時から再び並びなおすが、いつまで待っても給油が始まらない。タンクローリーがこちらに向かっているとの情報も入るが、本当のことなのかどうかも不明である。ポリタンクをいくつも並べて先頭に並ぶ男がプレミアム付きで買わないかと申し出てくるのにOKを出し、それを期待する。定価1リットル7千クワッチャのガソリンが闇値はすでに1万クワッチャに値上がりしている。
 8時ごろになって、べべさんが歩いて5分ほどのホテルから駆けつけてきた。「オーイ、ホテルでガソリンが手に入ったぞ。急いで引き返せ」、よく事情はわからないままに車を連ねてホテルに引き返す。ホテルの裏手にまわりこんで、ホテル専用のガソリン・タンクのところまで導かれていく。ルサカで最高級のインターコンチネンタル・ホテルに投宿したのが大正解だったのだ。何をどうネゴシエートしたのかは知らないが、英語が堪能で、口八丁のべべちゃんが、マネージャーを捉まえて、まくし立て、われわれの苦境を訴えたところ、各車50リットルずつ、計100リットルを市価で譲ってくれることになったのである。これで明日は安心してマラウイへ向かって出発できることになった。

マラウイ湖畔
 ルサカから東へおよそ600キロ、マラウイとの国境の町チパタの安宿に1泊する。途中モザンビークとの国境に接する付近ではポリス・チェックがあった。密入国や密輸を警戒しているのであろう。ここまでくればガソリンはふんだんに出まわっており、一安心だ。翌4日早朝に通関を済ませ、首都リロングェまではひとっ走り、昼前に到着する。午後はのんびりと休養するが、若い3人の男女はなにか役に立つ本でもないかと町へ探しに出かけていった。
 10月5日、リロングェからマラウイ湖に向かってさらに東へサリマへと進み、ここから北に向かって湖岸に達する。湖を右手に遠望しながら、リロングェから565キロで目的地のンカタベイに到達する。6日は1日ゆっくりとこの保養地で骨休めだ。沖合いに見える小島が釣りのポイントだというので、わたしと藤岡、村尾の3人でホテルのボートを出してもらって釣りに行く。丸山さんは熱を出して今日は用心をして休養、べべさん、アサミさん、ズッパさん、妻の憲子もまたホテルの庭でのんびりしていたいという。
 シュノーケルをつけて水中を覗いてみると、小魚が結構泳ぎまわっているが、藤岡君も私も釣果はまったくゼロだった。村尾さんはひとり島のまわりを泳ぎまわってはしゃいでいる。近くに2隻の小船がやってきて、連携をとりながら網を流している。見ていてもそれほど魚は獲れていないようだった。お昼になったので、ボートでホテルまで送り返してもらう。
 午後はマンゴーのまだ熟れていない緑色の実が鈴なりになった芝生の庭と砂浜を散策し、のんびりと昼寝を楽しむ。丸山と村尾は、この付近の村を調査している同僚から、ユスリカを団子にしたものがマラウイ湖の名物でおいしいから是非食べてくるようにと聞いてきたので、探しにいくが、見つからなかったといって戻ってきた。マラウイは、農業と漁業以外に産業はなく、けっして豊かな国ではないが、湖も田舎の土地も人々もじつに平和でのどかな国である。街道沿いはきれいに耕されていて、まるで日本の農村を思い起こさせる。アフリカ大地溝帯の最南端に位置するマラウイ湖は南北に細長い大きな湖で、この国の3分の1を占めているが、東半分はその南部がモザンビーク領、北部がタンザニア領に属している。地雷の脅威に怯えなければならないモザンビークと違って、じっくりとアフリカの原野を楽しみたい旅人にはマラウイはまことにうってつけのところだと思われた。

市場風景
マラウィ湖畔の市場。野菜、豆、湖で獲れた魚の干物を並べて売っている。(撮影:笹谷哲也)

タンザニアへの旅
 10月7日、ンカタベイからさらに湖岸沿いの道を北上し、タンザニアとの国境を越える。約460キロの走行で、ムベアの町に日が暮れてから辿りつく。タンザニア最南端に位置するこの近辺には、農耕民の村を調査するアフリカセンターの教員、院生が何人か調査に通っているが、いまは誰もいないので、町のホテルに1泊しただけで、モロゴロに向かって東北東へと進路をとる。
 マラウイに比べるとタンザニアは圧倒的に人口が多く、街道沿いに次々と村があらわれ、道を行く人々の数も多い。自転車の多さもやたら目につく。道路は舗装されていてそれほど悪くはないが、閉口するのは、車がスピードを出さないように、やたらと道路を横切ってアスファルトのバンプが拵えてあることだ。村の前後には必ずこの障害が設けてあり、ひどいものは停止寸前まで速度を落とさないと、下手に突っ込んだら車は大ジャンプし、天井に頭をぶつけるぐらい大きなバンプもある。建設省がきちんと作ったものに加えて、村人たちが勝手に自衛のために手作りしたものも多く、中には障害物の手前に予告の標識がなく、突然現れて急ブレーキをかけなければならないところもある。
 イリンガを過ぎて峠道を下っていくと、道路の両側の斜面に見事なバオバブの純林が現れる。この林は何キロ続いたことだろうか。これだけの美しいバオバブの林はちょっとお目にかかったことがない。まるでおとぎの国を訪れた気持ちになる。あそこで、なぜ車をとめて写真を撮っておかなかったのだろうか。いまになって大層悔やまれるのである。
 やがて、ミクミ国立公園の入り口にさしかかり、公園とは反対の右手の丘に建つサファリ・ロッジに到着した。酒をたしなめつつ、夕食を楽しくすませたあと、男連中4人で寝酒にウイスキーの水割りを頼み、わいわいがやがやとおしゃべりをした。旅は半ばを過ぎ、来し方を思い出し、行く手の冒険を楽しく思いめぐらした。べべちゃんと私は早々に引きあげたが、ズッパさんと藤岡君はさらに杯を重ねたようである。二人は酔っ払って、自分たちの部屋までたどり着くことができず、途中の木陰でひっくり返ってしまった。村尾さんが心配して、「わたしゃ、ここで寝る」という二人をなだめすかして部屋まで引っ張っていったということを、私たちは翌朝聞いた。
 翌日は朝のうちにミクミ国立公園の中を一巡りし、モロゴロへ向かう。午後の早い時間に町についたので、まずはガソリンを満タンにしていると、「ハロー、ハロー」と寄ってきた人がいた。以前にアフリカセンターへ留学生として勉強にきていたムスヤさんであった。彼はモロゴロにあるソコイネ農業大学の講師をしており、たまたま私たちを見つけたので、ガソリン・スタンドまで追っかけてきてくれたのである。夕方には、やはりセンターで博士の学位をとり、ソコイネの講師をしているニンディさんが小学生の息子を連れてやってきて、夕食をともに賑やかに歓談した。ソコイネをベースにして、いまセンターの助手である荒木美奈子さんが彼女のフィールドで調査を行っているが、山の上の調査地から丸山さんの携帯へねぎらいの電話をしてきてくれた。ソコイネ農業大学と京大のアフリカセンターは研究協力協定を結んで共同研究を進めており、いまは過去5年以上前から、掛谷誠教授が代表者となって、JICAプロジェクトを進めている。

(第2部 完)

[訂正]
 第1部 「石化木の森とトゥイフェルフォンテインの岩壁画」の節に記載した石化木を珪化木と訂正いたします。