ランタン・ゴサインクンド・ヘランブー トレッキング
(2009年4月12日ー5月9日)
福本 昌弘
メンバー:阪本 公一(L)谷口 朗(SL) 八太 幸行 福本 昌弘
サーダー: アムサン・シェルパ(39歳)
ポーター: チリング(37歳)、ビル(27歳)、ウルケン(20歳)
2001年に阪本君が友人夫妻と3人で、ランタン渓谷・ゴサインクンド・ヘランブーを訪れた時の、ラリーグラス(石楠花)、桜草等の咲き乱れる渓谷、聖地ゴサインクンド、ヘランブーの村々興味深い話を、何度か彼から聞いていた。
ランタン谷なら、もう一度訪問してもよいと、彼が我々の為に、このトレッキングを企画してくれ、訪れることになった。
1946年この地を訪れた英国探検家ティルマンが、世界で最も美しい谷と呼び、其の谷の最奥には、純白のウエディングドレスを纏ったように光輝いているフリュウテッド・ピーク(ガンチェンポ6387m)仰ぎ見られる事、またAACK島田君達が、学生時代アンナプルナ南峰初登頂後、この 谷に入りガンチェンポに挑戦している事も興味あることだった。
今回のトレッキングは、阪本君が飛行機の手配、現地のとの交渉 食糧計画と調達、装備等、綿密な計画を立て全て手作りで企画してくれた。
出発:2009年4月12-13日 関西空港で東京組、京都組落ち合って、バンコク経由カトマンドゥに入る。
4月13-15日、カトマンドゥ泊。
この街に3日間滞在中、今回のトレッキング・エージェント(シーガル・トラベラーズ)への、トレッキング代金の支払い、買い物、シェルパとの、顔合わせ等の用事を済ませた。
この時エージェント事務所に、昨年秋のロールワリン・トレッキングで大変お世話になった大物サーダー、 ナワン・ヨンデンさんが律儀に我々に挨拶にきてくれた。
13日夜,アムサン・シェルパとナワン・ヨンデンさんを招待して、夕食を共にして歓談。
4月15日 ランタン谷入り口のシャブル・ベシ行きのバスに乗るべく、新バス・ターミナルに6時30分に行くと、アムサン・シェルパが途方にくれた顔つきで、我々を待っており、彼の説明によると、途中の幹線道路が沿線の住民の政府への抗議で、閉鎖されて今日はバスが出ないとのこと。現政権は全く治安掌握しきれてない模様。やむなくホテルに引き返し、午前中、古都パタンへ観光にでかけた。
4月16日 5時起き、7時に新バス・ターミナルに到着。今日はバスが出るとのこと。現地住民の利用しているバスで、07時40分出発。シャベル・ベシに向う。バスは、あらかじめ座席指定券を購入してあったので座れたが超満員。通路は勿論の事、バスの屋上も超満員。2人の車掌が車内、車外を軽業のように行き来してバス代金を徴収するのは見事。
バスは乗り下り自由、最終地点のシャブル・ベシの1時間ほど手前の、ドウンチェで入山許可のチェックを受ける。 このドウンチェはシン・ゴンパ経由、ゴサインクンドへ最短2日間で入れる基地。
結局悪路を9時間50分かけて最終目的地シャブル・ベシに17時30分到着。代金は荷物台を含め900円/1人程度、本当に疲れ切った。宿でシャワーを浴び、ビールで乾杯やっと生き返った。
4月17日 6時30分トレッキング開始。V字状のランタン谷を遡行開始後直ぐに、軍隊のチェック・ポイント。登山道はよく整備されている。 バンブーロッジ(1960m)で昼食、3人のポーターの紹介受けた。ポーターは、各隊員の荷物と共同装備、ポーターの個人装備入れると、30kg程度担いでくれることになる。
福本、出発前の体調調整悪く不調。今日の目的地ラマ・ホテル(2480m)着くと同時に、ベッドに倒れ込む。体温38度を越しており、まったく食欲なくただ眠る。
4月18日 福本まだ高熱続いているので、全員が1日停滞してくれる。阪本君達はやむなく2時間程のハイキングに行ったとのこと。阪本君がカタクリ粉の重湯作ってくれたが全く食欲なく食べる事出来なかった。夜発汗してやっと体温が下がった。
4月19-20日
(ラマホテル/ゴーラ・タベラ/ランタン村/キャンジン・ゴンパ)
福本の体温36.7度まで下がったので出発。福本まだ十分回復していないので、阪本リーダーの判断で、ラマ・ホテルから3時間の処にあるゴーラ・タベラまで登り、阪本君、福本、ポーター2人がそこで停滞、谷口君、八太君、アムサン・シェルパは、ランタン村まで足をのばした。
ゴーラ・タベラは、ラリーグラスが咲き乱れ、ランタン・ヒマールの主峰、ランタン・リルン(7246m)が見える素晴らしい宿泊地。
|
|
桜草
|
ランタン谷のシャクナゲ
|
4月20日 6時30分出発。
福本が、平熱まで体温が下がったので、今日はタンタン村経由、キャンジン・ゴンパに向かう。キャンジン・ゴンパ(3840m)に14:00到着。途中ランタン村で昼食をとる。ランタン村の村外れでは、ラマ教の文言(オンマニペメフム=蓮の華の上に栄光あれ)を石に彫刻したマニ石の垣根の長い道が続いていた。
谷口君達は、午前中キャンジンゴンパに到着、午後は裏山にハイキングに行ったとのこと。夕方全員がそろう。
4月21日 阪本君、谷口君、八太君は10時間コースのランシサ・カルカに出発
福本は、体調調整の為裏山にハイキング。以下、谷口君の報告。
今回のトレッキングで最も楽しみにしていた最奥のランシサカルカへ行く日である。
いつもより早く6時前にキャンジンを出発する。福本が同行できないのは真に残念。
道は徐々にランタン本流に下り沢沿いに遡る。
振り返ればランタン・リルン、右手(南側)のナヤ・カンガ(5,846m)とポンゲン・ドプク(5,930m)の間には1958年深田久弥が南のタルケギャンから越えてきたガンジャ・ラが望める。
ジャタンカルカを過ぎ約半世紀前(1964年)島田・上田がBCとしたヌマタンカルカに着く。 対面のニャヤン沢からの島田達のルートを目で追いガンチェンポ(6,387m)を望む。ゆっくりと時間を掛け往事を偲んだ。
正面にランシサ・リ(6,310m)を見ながらシャルバチュム氷河からの巨大なモレーンを乗越せばそこがランシサカルカだった。持参したカタを奉じ旅の安全を祈る。
右手のランシサ氷河の奥にはウルキンマン(6,151m)、1949年ここからパンチポカラに越えたティルマンパスもあの辺りだろうか?
今日出会ったのはガイド兼ポーターを連れた韓国人アラインのみ、キャンジンまでの喧騒が嘘のような静寂であった。
午前中は天候も良く山々を満喫できたが午後になり急に悪化してきたので急いで4時半帰着。途中から降り出した雨は雪に変わり一晩中続いた。 (谷口)
|
ランシサ・カルカから眺めるランタン谷奥の山々
|
ジャタン近辺から眺めたランタン・リルン(7245m)
|
4月22日 キャンジン・ゴンパ(3840m)→ゴーラ・タベラ(2950m)
6時30分出発、村外れのゴンパにお参りしてお賽銭をあげ、旅の安全を祈願する。
近くにスイス政府のODAで出来た、チーズ工場があるがまだ時期が早く、ヤクの原乳が集まらないので、工場は稼働していなかった。
今日の宿泊地、ゴーラ・タベラまで下る途中、村の手前で、蕨、深山棘草(ミヤマイラクサ)などの山菜を採る、どうもチベット人は食べないようである。
カトマンドゥで日本料理を習っているポーターのビル君が、早速、山菜を灰汁と共に湯掻いてくれ、阪本君がしょうゆとゴマで美味しい蕨のお浸しを作ってくれた。
又ビル君が深山棘草を、お浸しではなく、モロヘア・スープのような鮮やかな緑色のポタージュを作ってくれた。(深山棘草は棘に触ると痛いが、彼等は、竹を割った道具を作り、ものの見事に柔らかい穂先だけを採集する、このことから判断するとどうも現地の人達は、ミヤマイラクサは食べるようだ)。
14時ゴーラ・タベラに到着後。午後は洗濯したり、ラリーグラスの写真を撮ったり、各人ゆったりと休養をした。又ロッジ主人から、自慢のアップルパイを勧められ、チベタン・ティーを楽しんだ。
ロッジから良く見えるランタン・リルンを見上げていると、頭上をヘリコプターが2機、キャンジン・ゴンパ方面からカトマンドゥ方面に飛んで行くのを見た。誰か高山病に罹り、救出の飛行と思われる。
|
キャンジンよりガンチェンポ
|
|
イラクサ
|
|
イラクサを摘むポーター
|
|
ゼンマイ
|
|
蕨
|
|
蕨のお浸し
|
4月23日 ゴーラ・タベラ(2950m)→ラマホテル(2480m)
途中ランタン・ヒマールの全貌が良く見える地点があり、各国の遠征隊が挑戦した各尾根、(東南稜、南稜、南西稜)、がはっきり見えた。ランタン・リルンへの各隊の登頂記録を、阪本君が事前準備してくれ、その記録を各人が読んできていたので、非常に興味深く各尾根を眺めた。9時45分ラマ・ホテルに到着。今日は休養日、阪本君が作ってくれた、日本食を楽しんだ。
|
キャンジンゴンパより眺めるランタン・リルン(7245m)
|
|
キムシュン(6760m)
|
|
ランタン・リルン東尾根
|
|
ランタン・リルン南面からの各尾根
|
4月24日 ラマ・ホテル(2480m)→ツロ・シャブル(2200m)
リムチェからの下りは、谷が深く切れ込んでおり注意して下る。バンブー・ロッジを過ぎた1790m地点の右岸のオーバーハングの岩壁に、ハチの巣が幾つか付いている。ロープが垂れ下がっているが、如何して蜂蜜を採集するのだろうか。
この辺りは、朝の澄み切った空気の中,蝶が舞い、小鳥の囀りが聞こえ、素晴らしいトレッキング道である。ランドスライド・ビユー・ポイントで昼食、此処から今晩の宿泊地ツロ・シャブルが良く見える。ランドスライド地点で、シャベル・ベシからの道と別れ、左手の登り道を取り、一気にツロ・シャブルに向けて500mの登る。途中コゴミを採集しながら登り、村の手前で大きな吊り橋を渡り村に入る。この村は結構、耕地があり豊かそう。各家にラマ教信者であることの証である白い「タルチョー」が林立している。まさに源氏の白旗を見る感じである。また各家では、柏槇(ビャクシン)の青葉を毎朝、フライパンのようなものの上で燻し、香りが高い柏槇の煙は大空に溶け込んでいく。多分これは、天の神様に自分はラマ教徒だと信号を送っているのだろう。
ホテルは何軒かあるが、決して露骨な客引きを、どのロッジもやらないので、気持ちがいい。
結局、阪本君の嗅覚でロッジ「ラマ・ホテル」を選択、なんと二人一部屋100ルピー(130円)。おまけに、各室にトイレ、熱湯が出るシャワー付。夜はビール、ロキシーと草蘇鉄(コゴミ)のお浸しで乾杯。
|
ツロシャブル近辺より眺めるガネッシュ山塊
|
|
チマール越しに眺めるガネッシュの山ヤマ
|
|
コゴミ
|
4月25日 ツロ・シャブル(2200m)→シン・ゴンパ(3350m)
今日は1000m強の登り。途中、ポルランで昼食、此処からは樹林帯の中、ラリーグラスを見ながら、みんなで短歌を作ったりしながら、静かな森林のなかを登る。
途中来年トレッキングを計画している「ガネッシュ・ヒマール」の山々が望まれ、又ランタン・リルンも遠望出来る楽しい登り道であった。宿泊地シン・ゴンパには13:30到着。
シン・ゴンパで、ヤクの原乳からチーズを作っているチーズ工場見学。ヤクチーズ(セミハード・タイプ)を購入(1kg650円)、チーズを肴に、今日が誕生日である阪本君の為に、ここまで担ぎあげた最後のウイスキーで誕生パーティーを開いた。夜はロキシーで乾杯、チベタン・フォークソング「レッサン・フィリリ」に合わせみんなで踊る。
|
ガネッシュ・ヒマール
|
4月26日 シン・ゴンパ(3350m)-ラウレビナ・ヤク(3930m)
今日は約600mの登り。何時もの通り、6時30分出発。黄色い豆科の低灌木(ピプタンサス・ネパリシス)群生を見ながら登り始め、巨木の林を過ぎると牧場があり、小鳥が鳴き、黄色い花のお花畑の中をのんびりと登る。3500m地点からラリーグラスに変わり、薄紫色の上品な「チマール」が現れる。9時35分宿泊地に到着。昼食後、ヘブンリー・パスまで2時間程のハイキング。夜は谷口君が夕食のオーダーを引き受けてくれ、シャクパ・スープにご飯を入れた雑炊、目新しくて美味かった。
|
チマールの花
|
|
樹上に咲く蘭
|
4月27日 ラウレビナ・ヤク(3930m)→ゴサインクンド(4381m)
何時もの通り6時30分出発。ヘブンリー・パス経由ゴサインクンドの入り口のラウレビナ峠に近付くと、渓流の音がして源流地帯を思わせる。
9:30ゴサインクンドに到着、此処は仏教徒、ヒンズー教徒にとっても聖地、煩悩の数だけの108の湖があるという。お祭りの際は、大変な賑わいを見せ、数万人が参拝客に上がってくるそうだ。
阪本君が2001年に来た時、美人の奥さんがいたという,ホーリー・レイク・ビュー・ホテルに宿舎を取る、残念ながら美人の奥さんは下の部落いるとかで不在。
8年前に13歳だった長女が、母親の留守中はロッジの運営をやっており、当時阪本君が撮った写真をプレゼントしてもらい、大喜びであった。
午後高度順応かねて、ヘランブ-側のラウレビナ峠(4610m)までハイキング。明日峠の南側にある4800Mの頂きまで登ろうと相談、15:00ロッジ帰還。
|
ゴサインクンドの湖
|
4月28日 福本風邪気味で休養、阪本君達は昨日偵察した山に登りにゆく。
(谷口君のレポート)
福本は休養。ガイドのアムサンと我々3人は昨日登ったラウレビナ峠から南の山にハイキング。
6時45分出発、峠の南にあるスルヤクンド湖の横から登る。 約1時間で頂上に到着。
標高は4,800m位。360度の景色が素晴らしい。
下りは西側へ、ロッジからは見えない上の氷河湖アマクンド湖・チャンドラクンド湖・ズダクンド湖と下りゴサインクンド湖の南辺に出て13:30ロッジ帰着。
道はなくところどころヤクの踏跡が残る素晴らしい半日コースであった。
今回はトレッキング地図3種類に加え阪本の情報をもと、カトマンドゥでネパール測量局の1/50,000を入手した。この地図には山名などは、殆ど入っていないが標高・地形などは正確でおおいに参考になった。 この地図を基にしたトレッキングマップ(NEPA MAP等)には道路・地名・山名等が入っており併用がいいかもしれない。
半世紀前にはどんな地図で歩いたのだろうか? 島田への土産として地図を購った。(谷口)
|
スルヤクンド湖から出発
|
|
頂上を望む
|
4月29日 ゴサインクンド(4381m)→ゴプテ(3400m)
6時30分出発,ラウレビナ峠から一気に1300m下る。途中ペディ(3760m)で昼食。この近くに1992年タイ航空エアバス機が115余名を乗せて、霧の中、山中に衝突、全員死亡。日本人も6人含まれていたとか。この事故は、エアバス機がバンコクからカトマンドゥに向かう途中、カトマンドゥ空港管制塔より、空港が混雑しているので上空待機命じられ旋回中、霧で視界がきかずこの事故となったらしい。小屋の近くにある日本人が建てた慰霊塔に手を合わせゴプテに向かう。ここからはアップダウンの激しい道を約2時間30分の道のり。
ゴプテには15:30分到着。ゴプテには貧しいバッティが2軒あるだけ。その一軒に泊まるが、主人はインド系の人相の悪い男。このトレッキング中、ロッジの宿泊代は200ルピー(260円)が一般的にも拘わらず、此処は宿泊費も300ルピー(390円),主食のダルバート(豆のカレースープとご飯)も普通は150-200ルピーだが、ここは300ルピー(390円)。阪本君はロシア人のトレッカーと歓談。
4月30日 ゴプテ(3400m)→メランチガオン(2550m)
6時15分出発 タレパティ峠(3600m)地点で峠を越えた後、東尾根を下る。阪本君は前回西尾根を下ったので、此処から彼にとっては初めてのコース。峠を越えると非常にきれいなカルカ(放牧地)、そこからの下りはチマールの花が咲き、唐檜林、唐松林の楽しい下り。途中コゴミ、蕨を採集。
11時45分 メランチガオン村に到着。今まで歩いた村の中で一番裕福。牧場もあり、又小学校、中学もある立派な村。ロッジの主人ご夫妻は非常に感じよく、ビル君に自由に台所を使わせてくれ、ビル君が夕食に今まで食べた事がないような、おいしいダルバートを作ってくれる。ダルバートがどちらか言うと苦手な八太君もダルバートのファンになった程である。
|
山村の子供たち
|
5月1日 メランチガオン(2550m)→タルケギャン(2740m)
07:00出発 ここから谷底の1800m地点ナコテガオンまで下り、そこで橋を渡り、タルケギャンまで登りなおすルート。途中母親に付き添われた小学生が、メランチガオンの学校まで通学するのに出会う。なんと一日に700mの高低差の通学とは吃驚。途中何組かのトレッカーに出会ったが、感じの良い4人組の日本人トレッカーにも出会う。
タルケギャンに12:15分到着。広々とした芝生の前庭があるマウント・ビユー・ホテルに宿をとる。我々は、ここで休養も兼ねて2泊するが、何組かのトレカーは昼食だけとり、先のガンユルetcまで下ってゆく。忙しい現役世代は時間に追われているが、その点我々は、たっぷりに時間があり恵まれている。
このロッジのご主人は若い時、カナダとの文化交流生としてトロントに滞在したことあり、現在は近くの7村の村長的存在。彼によるとタルケギャン村は、100戸の中実際に住んでいるのは20戸程度、村には耕地あまりなく非常に貧しいので、カトマンズ、インドに出稼ぎに出ていおり過疎化が激しいとの事。
村の中を歩いても多くの家が閉まっており閑散としている。
5月2日 タルケギャンで、一日休息日。
5月3日 タルケギャン(2550m)→セマタン(2590m)
セマタンに向かう途中、対岸の山中に見事な段々畑があり、小さな村が幾つも張り付いている。段々畑の耕作は大変であるし、高度差のある畑の管理も大変と思うが、やはり谷底は湿度が高く、チベット人は嫌うようである。山から水さえ引ける所なら清潔な山間に、段々畑で作物を作るほうを選ぶようである。又高度が違う村々があるのは、その高度に適した作物を収穫出来るからと思われる。例えば高度が高いところでは、ジャガイモが適し、高度が低いところではトウモロコシ、大麦に適すと言うように住み分け、お互いに作物を交換する経済が成り立っているようである。
11時15分セマタンに到着。 急ぐこともないので、この村で一泊のんびりとする。ここセマタンまで自動車道が上がってきており、急ぐトレッカーは、カトマンズからチャーターした車を呼び下山していった。
5月4日 セマタン(2590m)→メランチ(846m)
06:30出発。今日は町に下りる日。ただ自動車道を歩くことになり興ざめ、途中カカニ(1500m)でお茶を飲み、そこからは自動車道を横切りながら一気にメランチに下った。11時40分、メランチに到着。到着した直後に雨が降りだす。早朝出発したお陰で濡れることもなく宿に入った。このメランチはメランチ川とインドラワチ川の交差点で交易のバザールがある。
住民は大半がインド系で険しい顔付き、丁度 毛沢東派の大臣が罷免されたこともあり、毛沢東派支持者が村の中をデモ行進しており、異様な雰囲気の村であった。
今夜がポーター達と最後の晩であったので、彼等を夕食に招待、各人の働きに応じて、阪本リーダーよりチップを手渡した。今回のトレッキング中荷物を担ぐので、ポーター達は誰もお酒を飲まなかったが、もう荷物を担ぐこともないのでビル君は今夜初めてお酒を飲んだが、疲れが出たのかすぐにダウン。
5月5日 メランチ(846m)→カトマンドゥ(1300m)
朝5時40分の乗り合いバスに乗る。前日座席指定券を買ってあるので座席は確保されているが超満員。じっと見ていると女、子供、老人が乗ってくると、自発的に若者達はバスの屋上に移動して、車内に女性を乗せるルールが見受けられた。それにしても、車掌は、お客の乗り降りの誘導、荷物上げ下ろしの手伝い、バス代回収と見事なものである。途中カトマンドゥにあと一時間の処で、またもや道路閉鎖(昨日交通事故があり、その保障でもめてとの事)。乗客は文句も言わずバスから降り、バリケードを越えた処に来ているバスに乗り込む。行政、警察のコントロール全く効いておらずある種の無政府状態の感がある。
5月6日ー5月9日 カトマンドゥ滞在
この間カトマンズ郊外の避暑地「ナガルコット」(2100m)を訪問。ここからは東にエヴェレスト、正面にゴサインクンド、西にアンナプルナ連峰が見渡せるビユー・ポイントであるが、秋の早朝でないと山々を見るのは難しいとのこと。帰りにカトマンドゥ盆地で3番目に大きな古都「バクタブル」に立ち寄る。カトマンズの旧王宮、パタン、に比べて赤茶のレンガ作りの建物びっしりとあり、マッラ王朝の栄華を偲ぶ事が出来た。
5月9日 帰国
費用とその他
今回の旅行は、阪本君が長年の蓄積したノウ・ハウを駆使して計画を作り上げてくれ、本当にお世話になった。
費用的に言うと関東組(谷口、福本)は関西集合ゆえ、羽田―関空間の航空運賃(26700円)が余計にかかっているが、関空出発ベースでは145000円+US$1200 合計265000円。これでカトマンドゥのホテル代、食事代、山中でのロッジ代、ポーター、サーダーの費用等全て込み。
今回は天候にも非常に恵まれ、雨に降られたのは一度だけ、お陰で気持ちのいいトレッキングを楽しめた。
スケジュール的にも、平均年齢69.5歳ゆえ、朝は5時起床、6時30出発、ロッジ到着は遅くとも午後2-3時。早く出発、早く着くことで、余裕のある旅であった。
個人的に反省することは、出発前の10日間程、色々なスケジュウルを入れ過ぎ、疲労を抱えて山に入り、疲労から1日寝込むことになり、他のメンバーに心配かけたこと。やはり70歳になると疲労がたまりやすいので、体調管理は万全を期さないといけないと肝に銘じた次第。
今回のトレキングでは、現地の4月の中旬には2500m-3000mの高度で、日本と同じ山菜があること発見、コゴミ(ネパール語 ”ダー”)蕨(ニュウロ)、ミヤマイラクサ、ぜんまい(今回は時間が無く採集出来なかった)で、お浸しで毎晩のように作り、現地のお酒(ロキシー)と楽しめたのは、このトレッキングの楽しみを大きく膨らませてくれた。
以上