ヒマラヤの山々に会ってきました

― ニューズレターNo.71 ガネッシュ特集をよんで ―
高村奉樹

 私はこの年齢になるまでネパールヒマラヤをたずねる機会がありませんでした。せめて一度くらいは訪ねたいとおもっていたところ、昨年の秋、ふとしたことからH交通会社の“ヒマラヤをみる”ツアーに、妻佳子と参加しました。じつは中国の蘇州などを巡る旅行を予約したのですが、当時対日感情の悪化がすすみ、雰囲気が不愉快らしいので思案していたところ、いっそネパール行きに切り替えてはどうか、と山には素人のカミさんが思いがけない提案をしたので、これ幸いとしたがうことにしました。まったくいい加減な動機の旅でしたが、それから一年たったいま、AACKニューズレターでガネッシュ登頂50年の記事があり、また斎藤オチョコさんの「ガネッシュ讃」もある。しかし残念ながらその写真はない。私の旅行はこのHPに投稿される諸兄のようにアグレッシブな紀行からは程遠いが、ポカラ郊外の丘から写した写真などもある。そこで日本の登山家、友人たちが半世紀もまえに情熱をもって目指し、また初登頂した山々の写真と、その山に関する記録を簡単に記してみました。元の原稿は大阪高津高校の5期卒業同期生HPむけに書いたもので、少し手はいれましたが、正確な登山史ではありません。いまや80才に達した老会員の山にまつわる古い思い出を含めて投稿します。

 ご用とお急ぎでないかたはご笑覧ください。

2013年11月19日 

 早朝6時、カトマンズの宿舎ホテル・エベレストの屋上から真北にモルゲンロートに輝くランタン・リルンをみた。1961年に大阪市大隊が挑戦したが、予期しない大雪崩がリルン氷河上5600mの第三キャンプを襲い森本隊長と大島さん、シェルパ頭をつとめたマナスル初登頂者ギャルツエン氏が帰らぬ人となった。そのときテントごと吹き飛ばされながら九死に一生をえた隊員のひとり、藤本勇は高津高校山岳部時代からの旧友で、かれにとっての「鎮魂の山」。

*この遠征隊を載せた英貨客船サード・ハナ号は、1961年2月中旬、神戸埠頭をはなれたが、見送りにはAACK先輩で市立大医学部講師原田直彦(タイヤキ)さんが来られ、出港前の上部デッキに上がってスコッチウイスキーで送別の祝杯をあげたのだったが。

 その後1978年におなじ大阪市大隊が悲願の初登頂に成功しました。かなたに浮かぶ白い秀麗な山、ランタン・リルンにおもわず手をあわせました。

ランタン・リルン

 私たちのツアーは関空発、香港、ダッカを経由するルートでした。前夜おそくカトマンズについたが、今日はネパールの国民投票日で戒厳令下、交通はすべてストップ。午前中はホテルに缶詰だが、午後はすこしでも街をみたいとガイドに頼み、選挙投票所から近くのヒンズー寺院まで案内してもらう。あちこちに選挙を終えた人たちがたむろしているが、表扉を閉めた商店街は静かで、毛派の選挙事務所はひと気もなく、とくに騒ぎはなかった。ホテルの前の道路は拡幅工事中だがこの日は一般車両通行禁止、ふだんは排気ガスでスモッグがひどく、視界の良さは今日だけのものだときき、街かどの電柱のようすとともに、現在おかれている首都の状況が推しはかられた。(エベレストホテル 泊

街の電柱
毛派の選挙小連絡所

11月20日 

 早朝、空港でマウンテン・フライトの順番を待つ。双発のターボプロップ機イェテイ号が両側二人座りの窓側だけに乗客を座らせてひっきりなしに飛び立つ。空港は遊覧飛行の番を待つ客数百人で溢れている、昨日は飛行禁止で欠航したせいだ。一時間以上も待ったのち、朝の陽光のなかを離陸。上昇して水平飛行にうつるとまもなく左手にヒマラヤの山々が現れる。真正面にエベレストだ! 乗客がひとり2、3分だけコックピットに招かれる。ハント隊のヒラリーとテンジンによってはじめて登頂されたのは、1953年、私が山岳部に入部した直後の5月だが、60年後にようやく会うことができた。その後、数百人が登頂したとはいえ、くろがねの南壁、化石を含むイエローバンドの壮大さは変わらない。日本隊の南からの登頂隊には中島ダンナが医師として参加、中国・ネパールとの三国合同交差登山では斎藤ワイさんが登攀隊長をつとめたことがおもいだされる。かえりの右側窓からは、松沢、松林兄らが企てた高所医学研究隊が実験登山を展開し、中島ダンナと斎藤ワイさんが60才過ぎて頂きに立った8000m峰シシャパンマが遠くにのぞまれた。

エベレストとプモリ(左)

 カトマンズの近くまでもどってくると、ああマナスルだ!1956年、槇有恒隊長ひきいる日本隊の今西寿雄とギヤルツエンが初登頂に成功したが、南面から見るとけっこう険しい。マナスルは、西堀さんの登山許可取得ついで1952年の今西錦司隊のアンナプルナ周辺からマナスル北面への広範にわたる踏査がその初登頂につながったのは周知のこと、改めてAACKとマナスルの深いかかわりに携わった大先輩たちに敬意をおぼえる。なお昨秋、ネパールのビザ取得の折には、大阪上六今西組内の名誉総領事事務所で、今西寿雄さんのお孫さん良介さんのお世話になったが、事務所の壁には朝日に輝くマナスルのおおきな写真があった。

 マナスルの右隣P29は1970年に大阪大隊が初登頂したが、下降時に登頂者は不幸にも滑落遭難した。さらにその右、三山のいちばん東にあるヒマルチュリは、マナスル以後の日本山岳会が1958年偵察隊、翌年本隊を送ったが氷壁突破ができず、1960年の春、慶応大隊が西面からようやく登頂に成功した。

 マナスル三山はすべて日本人が登ったことにあらためて感動するが、1950年から60年代、もう戦後ではない日本の再出発の象徴のようにも思われる。

*なおこの時期、AACKはカラコラムではチョゴリザに1958年、ノシャック’60年、サルトロ・カンリ’62年にそれぞれ初登頂している。

マナスル三山

 一時間足らずのヒマラヤ・ジャイアンツを眺めるフライトは、感動とともにあっという間に終わった。だがエベレストのさらに東にあるヤルンカンを鮮明にとらえることができなかったことは心残りだった。

 どの山も目的の山麓BCへのながいキャラバン、そこから始まる登攀の苦労は、空からでは伺うこともできない。そのむかしカラコラムで遠征登山を経験している私は、このきびしい8000メートルの山々に向かった先輩、友人たちの労苦を推しはかって、改めて心からの敬意を覚えた。

 このあと午まえに空路ポカラまで移動、途中右窓からアンナプルナⅡ、Ⅳ峰がつらなって間じかに見えた。この山に今西寿雄、伊籐洋平、脇坂ザッカスさんたちを送り出したのは1953年、私が山岳部新人一回生の夏だった。雨つづきの穂高涸沢合宿のあと、急遽京都に戻って本部構内の一室で高所用食料のレーション作りや装備のパッキングを手伝った。遠征隊のキャラバンはポカラ空港からⅡ峰に向かってキャラバンののちBCを建設したが、南面の障壁突破は無理とみて、急遽隊員とシェルパで運べる荷物とともに5785mのナムンバンジャン峠を超えて北側に回り、予定を変えてアンナプルナⅣ峰に挑んだ。

 しかしいよいよ頂上という段階でジェットストリームが吹き荒れ、7100mのCⅤテントを破られかろうじて撤退した。そのときの厳しい様子は、藤平からいくどか聞き、滑落する今西をザイルで停めたくだりには力がこもった。

*この北面への転進は最若年の藤村が担当し、いったんポカラにもどって35人のポーターとともに東廻りの道を二週間かけて、BC(4500m)まで隊荷を運んだ。その二年後、高槻農場で藤村助手の指導を受けたとき、たまたま持っていたW.ノイスのエベレストをお見せしたところ、ヒマラヤには二度と行きたくないとつぶやかれたが、理由は聞けなかった。“登山に科学を!”をモットーに、新制の京大山岳部をリードし、厳冬期の知床縦走の隊員でもあった藤村オンタイだが、この遠征隊の構成、なりゆきになにか問題があったのだろうか。

 なおアンナプルナⅣ峰はすぐあとの1955年、ドイツのシュタインメッツらが初登頂に成功、Ⅱ峰はクリス・ボニントンたちが1960年にⅣ峰を経由してはじめて登頂した。

アンナプルナⅣ、Ⅱ峰(11月22日早朝 ポカラグランデ屋上より)

 ポカラ観光、フェワ湖で湖上の島までボートで行きマチャプチャレを仰ぎ、湖岸のレストランで遠くアンナプルナの麓、ツクチェ村でとれたソバを食べる。

 夕方、サランコットの丘にツアーバスでゆくが、途中曲がりくねった一車線の山道はおそろしい。登りついた展望台から見えるはずのアンナプルナ連山は残念ながら全く雲の中だった。土産物屋で毛織物のキャップ、ショールといっしょに、大小の谷筋で採れるアンモナイトが並んでいるのが眼をひいた。

 なお最近、この丘に、エベレストビューホテルを創った宮原氏が、大きなホテルを建設中と聞き、インターネットで調べたところ高度差700m、距離2300mのケーブルカーの設置も認可されたとある。(ポカラグランデ 泊

11月21日

 アンナプルナ連山とマチャプチヤレを間近に見るため、ポカラの南シャンザゲートの峠までバス、そこから高度1200m?のラムコットの丘までハイキング。メンバーは足元や服装は普段のままの人を含めて、ツアーの20名全員参加して山桜の咲くゆるやかな道をあるき村の中の坂みちを登った。

校庭にむかう児童たち
村のシコクビエ畑

 途中、丘の上の小学校に通う小学生たちと前後して登るが、みんな清潔な制服を着ている。校庭に植えられた桜の木は、日本から送られたものという。村のあちこちの狭い畑には、シコクビエが穂をつけている。このヒエと場所によってはソバが、ネパールではもっともよく主食として栽培されていることはみなさんご存じのとおりだが、この地ではほそぼそながらビニールハウスで野菜、トマトなども栽培されている。ポカラに出荷するらしい。

アンナプルナとガネッシュ
マチャプチャレを背景にガイドのアショカさんと私たち

 ラムコットの丘からはガネッシュ(通称アンナプルナ南峰)が真正面に見える。1967年、隊長樋口ジャン、副隊長上尾のOBが参加したが、最後は山岳部現役学生だけで初登頂した山、ようやったなあと感嘆する。

 この山については最近のニューズレターに詳しく記されているので、あらためて書くこともない。ただ横山編集長の「アンナプルナ南峰について」によると、最近の資料ではかれらが登頂した中央峰はじめ主峰(最南峰)、北峰の標高記載が当時の山岳部報告よりすこし低くなっているという。それはそうとしても、上尾兄がミンマと初登頂した主峰が、じつはこの三峰のうちで最高峰であることに気づき、サルトロの若者上尾さん、ようやった!「ガネッシュの蒼い氷」は消えることはない。

 半世紀まえから思いをよせてきた山々に、ようやく巡り会えた喜びとともに、老生は丘をくだり、オールドバザールの古い街のたたずまいに、山岳民族たちが行きかった時代におもいをはせた。(ポカラグランデ 泊

11月22日 

 空路カトマンズに戻ったが、選挙のおわった街はふたたびたくさんの人出、砂ぼこりで暑い。バスはパタンやバクタプルに運んでくれるので、旧王宮や多くの寺院、五重の塔などつぎつぎにまわった。それぞれに古い歴史を秘めた立派な建造物らしいが、正直のところ全体として猥雑な感じがぬぐえない。ラマ教、ヒンズー教そして仏教の寺院が混在しているせいであろうか。夕方、バスでカトマンズ近郊ナガルコット丘上に運ばれたが、2100mの尾根上に拓かれたリゾート地域で肌寒い。廻りに針葉樹が立ち並ぶが、近くには段々畑とともに農家が点在する。(クラブヒマラヤナガルコット 泊

11月23日 

 屋上から雲のかかりかけたマナスル三山、ランタン・リルンなどを観てから、ふたたび暑い人ごみのカトマンズ盆地にくだった。人ごみの中を例の四方をにらむストウパのスワヤンナブート寺院、バクタプル寺院群などを見物、参拝したあと、ダルバールで旧王宮を見学し、生き神の少女クマリが寸時窓から顔を表すのに出会った。

 ところで2001年にネパール王国が共和国に移るきっかけになったとおもわれるビレンドラ国王夫妻など家族9名の殺害事件をおぼえている人も多いだろう。皇太子デイペンドラの反逆、身内射殺事件というのが通説だが、真相はいまもやぶの中だという。その皇太子が日本山岳会の招へいで来日したとき、京都では都ホテルで歓迎会が催され、当時の上尾会長はじめAACKメンバーも参加して、ネパール大使の陪席で皇太子にかねてからの交誼を感謝したがいに握手をした。皇太子はトリブバン大卒業の理学士?で、スマートな若者だった。しかし宮殿内でかれが銃を乱射して身内や重臣を殺害、自らも命を断ったと報じられたのは、かれの帰国後ひと月たった頃だった。旧王宮の回廊には歴代のマヘンドラ家国王の写真パネルが展示され、その終わりのひとつ前に彼の少しいかめしい姿があった。王制は崩れて共和制に移り、最後の王もいまは隠棲しているときくが、街の人々の関心は失われたようだ。

旧王宮の中庭にある回廊
カトマンズのバクタプル寺院群

 観光地としての開発が進められて久しいネパールだが、私が関係した熱帯農業学会で以前に開いたネパール関連のシンポジュウムで、日本がこの国を支援する事業は多分野にわたり数百にものぼるとききました。今回の全国選挙は数日かかって開票した結果、いっとき勢力を誇った毛派の党は大きく後退し、穏健派が勝利したようです。地域によって熱帯から寒冷地にわたる、低地から高地の多様な環境のもとで、村落も街部もそれぞれ緩やかに発展することをねがいつつ帰途につきました。                      

以上

2014年12月15日