山と自然を楽しむ
松井 千秋
昨年(2019年)7月、1960年春の「十字峡横断」から59年振りに、その時の下山路に使った早月尾根から剱岳に登った。頂上からは鹿島槍ヶ岳、黒部別山、立山へと続く黒部十字峡横断のルートを確認し、剱岳の夏山合宿で登った、源次郎尾根、八ツ峰、剱尾根などを眺めた。1957年の大学入学以後、今日まで山や自然を楽しむことができたのは、山岳部に入って登山の基礎を学び、山の仲間との交流が続いていることによる。京都大学時代(11年)、九州大学時代(33年)、定年退職以後(19年)の63年間の山や旅について回想する。
山岳部入部
子供の頃から自然の中で遊ぶのが好きで、中学・高校時代の夏休みには、家の近くの瀬戸内の海に行き、泳いだり、潜って魚を突いたりした。浪人の1年は広島の山や谷を歩いた。大学に入る前年の1956年にマナスルが初登攀された。その記録映画と登攀者の広島での講演に刺激されて、山岳部に入った。入部時のリーダー(L)は松浦さんで、まず先輩達から金毘羅山、道場で、ザイルの使い方、アップザイレンや確保の方法など岩登りの基礎訓練を受けた。
最初の剱岳夏山合宿(L竹内)では、ピッケルを使ってのグリセードや転倒・滑落時の止め方などの雪上訓練を受けた。その後、各パーティに分かれて、岩場の登攀に入った。2回生の松尾さんとOBの谷さんと登った、「チンネ中央チムニー・Aバンド・Bクラック」の登攀が忘れられない。登攀中、背後の空間で雷が頻繁に発生していたことを、登り終わってから聞いた。岩場に集中して余裕が無く、全く気が付かなかった。真砂沢のキャンプ地から、雪渓を経由してのチンネの登攀が、新入生に対す3ヶ月の訓練で可能になったことは、今考えても素晴らしいことに思える。新人教育体制がしっかりしていたのだろう。合宿の後、山縣(L)、原田(浩)、1回生3人で10日間かけ、剱岳から立山連峰、五色ケ原、平を経て、針ノ木峠に上がり、後立山連峰の鹿島槍ヶ岳、五竜岳、白馬岳を縦走し、雪倉岳から小川温泉に下って夏山を終えた(写真①)。
① 立山・後立山縦走 原田(浩)・松井・山縣 1957.8
秋山は10月に、2回生の上尾(L)さん、同輩の小浜・山縣・福本・脇野と涸沢に入り、前穂高岳北尾根、奥穂高岳、北穂高岳に登った。帰路は上高地から徳本峠を越えて島々に下った。
11月には、先輩の土井(L)・南条・笠原さんと鎌尾根から鹿島槍ヶ岳に登った。鎌尾根の登攀中に、偶然、吊尾根を南峰から北峰に走るカモシカの姿を見た。幻覚かと思ったが、稜線に上がると雪面に確かに足跡が残っていた。冬山は笹ヶ峰ヒュッテでの合宿で、初めてスキーを履き、山スキーの基本を習った。春山は3月に、立山東面の中央山稜の初登攀を目標に、沖津(L )さんと上尾さんの3人で、弥陀ヶ原を通り、一の越から御山谷をスキーで黒部川まで下って御山谷小屋に入った。降雪が続き目標は達成できなかったが、山行の前半に2681m尾根から雄山には登った。この山行で、上尾さんと2人でルート偵察中に、足元の雪面が突然水平に切れて、黒部川に向かって落下していく、雪崩発生の貴重な瞬間を経験した。ベースの小屋の近くに関西電力の飯場があり、そこの人の話で、黒部川には2尺以上の大きな岩魚がいることを知った。
2・3回生の時も同じように1年を通して山に行き、年間100日は山に入っていたように思う。以下の山行が印象に残っている。2回生の時、穂高の夏山合宿(L前小屋)の後、奥又白池の傍にテントを張って、前小屋さん、山口・松井・丹波、それにOBの松田さんも参加されて、前穂高岳の東壁、北壁、北尾根4峰などを登った②。4峰新村ルートでは、オーバーハングで難儀し、トップを変わって山口が簡単に越えて行ったことを覚えている。この山行の時、前穂高東壁で不思議な小動物の群れが、岩の上を流れるように移動する光景を目にした。その珍しい動物は、後で「オコジョ」と知った。奥又白の岩登りの後は、山口、丹波と3人で、大槍と小槍③に登り、双六岳、雲ノ平、薬師岳と縦走して、平から針ノ木峠に出て大町に下った。秋山は、山口・山縣らと北岳バットレスを目指したが、天候が悪く岩場にも取り付けなかった。しかし、別ルートで北岳には登った。
② 奥又白池での前穂高岩登り合宿 1958.8
③ 槍ケ岳の小槍登攀 松井・山口・丹波(撮影) 1958.8
2回生の冬山は、1回生の春山で登れなかった立山中央山稜を目標に、当時貫通したばかりの関電トンネルを、民間人として初めてジープで通してもらって、立山東面に入った。OBの潮崎(L)・谷さん、3回生の上尾・白井・高橋さんと松井が参加し、ベースからキャンプを2つ伸ばして、潮崎・上尾さんが初登攀した。第2登のメンバーに選ばれたが、天候悪化で撤収になったのは残念だった。春山は、「黒部源流の山と谷」をめぐる大規模な合宿(L酒井)で、OBの岩坪さんのパーティに加わって薬師岳に登り、薮内OB・安田と3人で笠ケ岳④、酒井OB・小浜・小沢らと槍ケ岳に登った。3回生の時も、剱岳夏山合宿(L前小屋)の後、三ノ窓コルにテントを張って岩登り合宿をした。前小屋・山口・脇野・松井・野村(悦)・松田OBが参加し、チンネ左稜線、池ノ谷右俣奥壁、中央ルンゼ、剱尾根を登った。ある朝、三ノ窓のコルから、剱尾根の稜線をクマが歩いているのを目撃した。森の動物が、なぜ3000m近い岩場で行動するのか不思議だった。冬山は、笠原さんをリーダーに総勢9名で穂高に入った。松尾・原田(道)・松井のパーティは奥穂小屋をベースにして、前穂高北尾根を登って3峰の頂上近くでビバークしたが、1960年元旦に前穂高頂上に立ち、吊尾根をへて奥穂高に登頂した。
④ 笠ヶ岳 安田・松井 1959.4
1960年の3回生の時の春山は、「黒部中流合宿」(L谷口)と「十字峡横断」(L塩瀬)の2つが計画された。その概要は、酒井(尚)が「2019年春、京都で回想の集い」(AACKニュースレターNo.90、2019.4)に述べている。「十字峡横断」のメンバーは、本隊の塩瀬・原田(道)・松井・安田・田村・笠目・田中(二)の7名とサポート隊の原田(浩)・三島・田中(健)の3名計10名である。
コースは、赤岩尾根から後立山連峰の稜線に上がり、鹿島槍ヶ岳南峰から牛首尾根を下って十字峡を横断し、黒部別山に登って立山連峰へ、そして剱岳に登頂して早月尾根を下山する、という23日間の大きな山行であった⑤⑥。その詳細は、田中(二)が「十字峡横断を回顧する」(前記のニュースレターNo.90)に書いている。
⑤ 十字峡に向けて牛首尾根を下る 1960.3 撮影:安田隆彦
⑥ 目標の剱岳が近づく 1960.4 撮影:安田隆彦
こでは個人的な感想を述べる。出発前、十字峡」と「黒部別山北尾根」については、前年夏の2つの偵察隊が台風来襲などで共に十字峡に到達できなく、その状況が不明でかなり不安であった。しかし、その実情は、黒部川本流には関電の工事要員用の小さな吊り橋があり、北尾根は不安定な急傾斜の雪稜ではあるが、特に難しい岩場はなかった。全コースにわたって、山岳部3年間に経験した以上の技術的な難所は無く、雪崩への注意と重い荷物の荷揚げが最重要事項であった。この山行の成功は、リーダーシップとフォロアーシップが良くかみ合い、本隊とサポート隊の10名がそれぞれの実力を発揮したこと、天候が割合良かったこと、によると思う。そして、感謝すべきことは、先輩たちが見出した大きな目標を、後輩の我々が引き継いだことである。
十字字峡横断の「横断」は、人工物の吊り橋によって成功したが、本流にワイヤーしか架かっていない場合を想定し、隊は滑車を持参していた。もしワイヤーも無かった場合、太古からの黒部川を渡ることになり、このコースの初トレースとしては最も理想的な状況であったかもしれない。このことはその後、ずっと私の頭から離れなかった(松井「十字峡横断に思う」『黒部別山―積雪期―』黒部の衆 三水社 2005.3)。
昨年の3月に昔の仲間が京都に集まった時に、このことを塩瀬に話した。2次会の席だったので具体的な話にはならなかったが、塩瀬は「考えていた」と云った。最初に黒部渓谷に到達したとき、原田(道)は川に降りて流れに手を入れ、「暖かい」と言った。水量は相当減水していたので、渡渉も可能だったかもしれない。メンバーの内3人は、専門が土木・建築で、すでに構造力学を学び始めていたから、流木を探して利用するなど、何か渡る方法を考え出したかも知れない。
十字峡横断以後早月尾根から下山して春の京都に帰り、大学に行くと掲示板に主任教授からの呼出しが掛かっていた。教授室に行くと、4回生からの卒業論文着手への意志を聞かれた。取得単位数が少ないので、心配されていたらしい。このことは山で充分考えていたので、留年して学習の遅れを取り戻したいことを伝えた。すると、教授は「実は私も留年したのだ」と言われた。励ましの言葉のように受け止めた。4回生での山の活動は減り、主な山行は11月の明神岳東陵から西穂高への縦走と、12・1月の西穂高から奥穂高への登攀、のみである。5回生になり、東大から来られた建築構造学の若林實先生の研究室で卒業論文を書き、更に大学院の修士課程に進学した。大学院修了後、建築学科と防災研究所で4年間、若林教授の助手を務めた。
1962年4・5月、OBとして参加した明神岳最南峰から明神、前穂、奥穂、北穂への縦走が、山岳部最後の山行になった。
1968年4月に九州大学建築学科(福岡市、箱崎キャンパス)に赴任した。この年は大変な年であった。九大着任早々の5月に十勝沖地震(M7.9、死者52名)が起こり、多くの建築物が崩壊した。その調査から帰ってくると、6月に建築学科に隣接して建設中の7階建ての電子計算機センターに、米軍のF4ファントム戦闘機が墜落した。その機体の引き下ろしと、米軍への引き渡しの問題をきっかけに、大学と学生が対立し紛争が起こった。米軍板付基地撤去を求める教職員のデモや学生の授業ボイコットなど、教育・研究の場は異常な状態が数年続いた。
九州の山九州の山は、1969年の秋、建築学科の2つの構造系講座(鉄骨構造、鉄筋コンクリート構造)の教職員・学生が参加する、合同ゼミが九重高原の九大研修所であった時に、近くの黒岩山(1503m)に希望者を募って10人ほどで登ったのが最初であった。その後、九州の山は、研究室の学生、家族、「山の会」(後述)などの仲間と登ったが、各地で会議や研究会があった折に1人で登ることが多かった。深田久弥の『日本百名山』(新潮社1964.7)には、九州に6座(九重山、祖母山、阿蘇山、霧島山、開聞岳、宮之浦岳)がある。それ以外で、定年以後も含めてこれまでに登った、印象に残る山を10座挙げると、雷山、宝満山、英彦山、由布岳、黒岳、大船山、傾山、国見岳、市房山、大崩山、である。九州は人工林が多くて自然林は少ないが、これらの山には自然が残り、山の姿も個性的である。
福岡県の東西に伸びる背振山系の雷山(955 m)は、自宅(1975年4月に福岡市から糸島郡前原町に移った、現在は糸島市)から車で20分のところにあり、大きな登山の前には必ずトレーニングに行く。標高400mにある雷(いかずち)神社の境内には、県の天然記念物の樹齢1000年ほどの2本のスギやイチョウ、モミジ、モミなどの巨木があり、中腹には古代の山城の跡と言われる「神籠石」の列石がある。山の南の佐賀県側には「吉野ケ里遺跡」があり、北の福岡県側は『魏志倭人伝』に書かれた「伊都国」の領域で、古代から人々に眺められてきた糸島地方の名山である⑦。九大は2012年に福岡市東区から糸島半島に移転してきた(伊都キャンパス)。
九州以外の山では、1969年夏の建築学会札幌大会の折に、学生とテント持参で大雪山旭岳から黒岳に縦走したが、それ以外で大きな山は、各種の会議などの折に1人で登った、利尻山、山上ヶ岳、甲斐駒ヶ岳、仙丈ケ岳、氷ノ山、磐梯山、だけである。
⑦ 自宅近くの長野川から見た雷山 2013.12
1973年7月にイタリアのローマで第4回世界地震工学会議が開催され、京大若林研究室時の研究仲間4人と参加した。助手の時の研究成果を発表した後、スイスの大学を訪問した。そこで皆と別れて、マッターホルン(4477m)に登るため、1人でツエルマットに行った。ガイド事務所に行って登山の申込をすると、これまでの山歴を聞かれた。日本で岩登りや雪山に登った経験を伝えると、問題なく引き受けてもらえた。標高1600mのツエルマットからケーブルと徒歩で標高3200mのヘルンリ小屋に行き、7月12日午前3時に出発して標高差1200mを4時間20分で登頂した⑧。頂上では雪が降っていた。下山も登りと同じ4時間20分だった。正午前、ヒュッテに戻ってくると、デッキで我々の下降を見ていた人達から拍手で迎えられた。
海外の山は初めてだったが、剱や穂高の岩場を登っていた経験から、ヘルンリ稜の岩場は特に難しい感じは無かった。ソルベイ小屋から上部の雪の急斜面は緊張したが、スイスのガイドは信頼でき安心して登れた。登りでの休憩は、ソルベイ小屋でのアイゼンの取り付け時の1回だけだった。福岡の宝満山から若杉山の稜線を、長時間歩くトレーニングを重ねていたので体力的な問題はなかった。登山の後はまた仲間と合流して、オランダ、西ドイツ、イギリスの大学や研究所の施設や実験などを見学し帰国した。この初の海外渡航では、ヨーロッパに40日間滞在し、実り多い旅になった。
⑧ マッターホルン4477m(登頂1973.7、撮影2001.7)
世界地震工学会議は、4年毎にオリンピック開催の年に地震国で開催される。第6回の会議は1977年1月にインドのニューデリーで開催され、鉄骨骨組の耐震性の研究成果を発表した。会議後、1人でネパールに行き、カトマンズから小型飛行機で標高3400mのシャンボチェに行き、エベレスト山麓を9日間旅した。旅は日本の山の旅行社を通じて準備してもらい、空港ではシェルパのガイドに迎えられた。その夜はナムチェ・バザールの村長の家の仏間に泊めてもらった。次の日1月18日、シェルパ族のガイド、コック、キッチンボーイの3人と、3頭のヤクに食料やテントなどを積んで、エベレスト山麓の旅に出発した。
1日の行動は半日ほどでゆっくりと歩き、氷結した渓流、樹林、冬の澄んだヒマラヤン・ブルーの空にそびえる岩と氷の峰々⑨、そしてエベレストを眺めた⑩。5日間歩いてクンブ氷河の末端にあるロブジェ(5000m)に着いた。この間、インドで辛い料理を食べすぎたせいか、下痢が続いて食欲が無く体力的に苦しくなって、ここで引き返すことにした。帰路、パンボジェの僧院で、「雪男の頭皮」を拝観させてもらった。人間の頭部と違って先が少し尖っていた。ガイドは雪男の存在を信じていて、「ヤクの放牧場などで、イエティ・ソングを聞いた人は多い」と言った。ある夜、遠くから獣の吠える声をテントの中で聞いた。次の朝、ガイドに尋ねると、それはオオカミで「毎年、ヤク30~40頭が襲われる」とのことであった。この旅は、目標のカラパタールまで行けなかったが、道中、出会ったのはオーストリア人のグループだけで、初見参のヒマラヤの大自然を静かに味わった。なお、人間4名・ヤク3頭の旅の費用は1日25ドルで大変安いと思った。ガイドら3人はよく世話をしてくれた。
カトマンズに戻って、首都の盆地周辺にあるレンガ壁と木材による重層の民家や多層の仏塔などを見て回った。1934年の地震(M8.3、死者10.2千人)で被害を受けた建物がまだ残っていた。カトマンズからカルカッタを経由し、20日間の旅を終えて帰国した。
⑨ カンテガ6779mを眺める 1977.1
⑩ エベレスト8848mを望む 1977.1
1981年10月から10ケ月、文部省在外研究員として、私の専門の鉄骨構造の実験や理論で成果を挙げている、米国リーハイ大学と英国ケンブリッジ大学に滞在した。リーハイ大学はペンシルベニア州ベスレヘム市にある。近くにアパラチア山脈が南北に通り、ここには世界最古で最長の自然歩道がある。10月、大学の行事で紅葉のこの自然歩道にハイキングで行った。その後、2度ほど1人で行き50kmぐらい歩いた。次の年1982年6月に、イギリスに移る途中、カナダのウィスラー山(2464m)に登った。標高差1200mほど、歩く周囲は獣の気配が濃厚で少し怖かった。イギリス滞在中は、スコットランドにあるイギリス最高峰のベンネビス(1344m)に登った。その帰路、英国の国鉄がストに入り、大学に戻るのに苦労した。スイス連邦工科大学を訪問した時は、ツエルマットに行き、ガイドと2人でモンテローザ(4634m)の標高差1800mを6時間50分で登った⑪。下山時、ガスが出て、氷河上のルートをガイドが一時見失ったが、無事にヒュッテに戻った。
⑪ モンテローザ4634m(登頂1982.7、撮影2001.7)
1988年4月、香港で高層建築の国際会議があり、高強度SRC構造の研究成果を発表した。帰路は上海に寄り、リーハイ大学で同じ研究室だった同済大学の胡先生に再会し、日本の鋼・コンクリート合成構造について講演した。その後、胡先生の手配で、上海から西に向かって一日中タクシーを走らせ、岩峰・雲海・奇松・温泉で有名な「黄山」に行き、蓮花峯(1867m、最高峰)、天都峯、光明頂に登った⑫。当時、ケーブルカーの施設は無く、岩峰に刻んだ階段を登った。
⑫ 中国の黄山 1988.5
1968年の学園紛争中の夏、研究室で玄界灘の玄界島に行き、泳いだり、潜ったりして海で遊んだ。自然の中に入ると、教官も学生も人間的に対等になり、よく話ができた。これをきっかけに毎年、研究室のゼミ旅行は主に九州周辺の離島に行くことになった。最初の頃はテント・食料などを持参して自炊したが、そのうち人数が増えてきて民宿になった。ゼミ旅行は、大学院修士1年生が企画し、「遊び・食べ・飲む」の共同生活がゼミの内容だった。行先は、壱岐(6回)、対馬、平戸島、生月島、五島列島(5回)、天草、種子島、屋久島(3回)、済州島(2回)など。島では海で泳ぐだけでなく、希望者で山を登ることもあった。屋久島では、参加者全員で山道を登り縄文杉を見に行った。島以外では、熊本の菊池渓谷、大分の耶馬渓、四国の四万十川に行った。香港島にも行き、優れた鉄骨構造として世界から高く評価されている「香港上海銀行」と「中国銀行」を見学し、この高層建築の独創的な構造の仕組を勉強した。これが唯一の専門の勉強をしたゼミ旅行だった。2000年夏の最後の研究室ゼミ旅行は、済州島に行き韓国の最高峰ハルラ山(1950m)に参加者全員12名で登頂した。
海外の山
2001年3月、京大4年・九大33年、計37年間務めて63歳で定年退職し、その夏、久しぶりにアルプスを訪れた。ツエルマットに行き、マッターホルン、モンテローザを眺めな がら、また海外の高山を登りたいと思うようになった。2002年8月、山岳ツアー会社の企画に参加し、モンブラン(4808m)に登った⑬。山岳部の後輩の田中(昌)と能田も参加した。田中とは1962年5月の明神最南峰から北穂への山行以来で、久しぶりにガイドと3人でザイルを組んだ⑭。
⑬ モンブラン4808m 2002.8 撮影:貫田宗男
⑭ モンブラン頂上 松井・田中(昌) 2002.8
2003年8月、キリマンジャロ(5895m)とケニヤ山(4985mレナナピーク)に登った⑮、⑯。
⑮ キリマンジャロ5895m 2003.8
⑯ キリマンジャロ頂上 2003.
2004年9月は、黒海とカスピ海の間にあるカフカス山脈のヨーロッパ最高峰エルブルース(5642m)に行ったが、積雪と強風で登頂できなかった⑰。2005年7月、ノアの箱舟が漂着したと旧約聖書に記された、アララット山(5123m)を強風の中、氷雪の頂上を踏んだが、下山後過度の緊張と疲労から下血し、現地の大学病院に入院して治療を受けた⑱。幸い1週間ぐらいで退院して帰国した。モンブラン登山から、順次山の高度と難度を上げて行けば、エベレストも可能ではないかと密かに思っていたが、アララット登山でとても無理なことが分かった。
⑰ エルブルース5642m 2004.9
⑱ アララット5123m 2005.7
2006年8月、中国ハルビンでの鋼・コンクリート合成構造の国際会議の後、会議の主催者の鐘先生の案内で長白山(白頭山)に行った。汽車とバスで麓まで行き、整備された山道を4輪駆動車で登って頂上直下に達し、少し歩いて稜線(2600m位)から、最深384mのイワナが棲むカルデラ湖「天池」を眺めた⑲、⑳。この地の中国側は既に観光地になっていて、その日も多数の人達が訪れていたが、北朝鮮側の稜線には人影が無かった。
アララット登山の後、海外登山は止めたが、ニュージーランド、カナダ、アラスカ、ネパール、インド、ブータン、スエーデン、ノルウエー、など各地の森林・湖・渓流・氷河・山岳などの自然を楽しみ、村・町・都市の生活や建造物などを見る旅は続けた。
⑲ 長白山の天池 2006.8
⑳ 長白山の稜線 2006.8
2006年10月、久しぶりに山岳部の仲間と旅をした。雲南のシャングリラからラサまで10日間、チベット人の運転する日本製四輪駆動車4台で走り、走行距離は2100kmになった。メンバーは、同輩の笹谷(L)・原田(道)・福本、後輩の伊藤・田中(昌)、先輩の寺本さんの7名、それに途中の飛来寺から、現地調査を終えた京大医学隊の松林・奥宮・石根・木村さんら4名が合流した。明永村の梅里雪山遭難記念碑に参った後、昔の茶馬古道、川蔵南路を通り、いくつかの谷を遡って氷河に近づき未踏の山々を眺めた㉑。旅で訪れた幾つかの山村の木造家屋に、日本の律令時代の穀倉と同じ3形式(丸木倉、甲倉、板倉)が使われていることを知った(松井「東チベット山村の住居」、AACKニュースレターNo.41、2007.4)㉒。日本の校倉造の源流は、まだ解明されていないが、東チベット・雲南の可能性もあると思った。
㉑ 東チベット高原の山々 2006.10
㉒ 山村の家屋(日本の板倉式と同じ) 2006.10
2009年7月に、笹谷夫妻・原田(道)・松井、後輩の野村(高)・島田と、北緯60度あたりのカナダのカスバ湖にマス釣りに行った㉓。湖岸にある釣り用のロッジと森を切り開いた滑走路以外、琵琶湖の面積の6倍ほどの大きな湖の周囲には、全く人工物の無い自然の中で、レイクトラウト、グレイリングをボートからルアーで釣った。釣った魚は、そのまま湖に戻すのがこの釣り場の規則だが、ガイドの許可を得て小振りな40~50㎝のマスを何匹か確保し、湖畔での昼食時に刺身や天ぷらで味わった。ルアー釣りは、開高健の『フィッシュ・オン』(朝日新聞社1971年)を読んで初めて知り独習した。九州中央山地の川辺川の渓流などで今も山女魚釣りをしているが、湖でマスを釣ったのは初めてであった。カスバ湖には1週間ほど滞在して釣りに専念し、体長90cmのレイクトラウト、湖から流れ出る川でグレイリング(川ヒメマス)47㎝も釣れ、昔の山の仲間と至福の時を過ごした㉔。
㉓ カスバ湖でマスを釣る 2009.7
㉔ 笹谷夫妻と釣り参加者 2009.7
九大現役の1983年頃から、福岡の鉄構工業会の人達、建築構造技術者、大学研究者らといろいろな会議などで親しくなっていき、工業会の中野さんを中心に「山の会」と称する自然と酒を楽しむ12~16名の会が生まれた。その活動は特に退職後に活発になり、それぞれの個人の趣味による企画で、対馬の船釣り、矢部川での鮎獲り、有明海の潮干狩り、四万十川のハヤ釣り、福間海岸のボートのキス釣り、福岡近郊でのタケノコ堀り、など自然の中で遊んだ。登山は、福岡近郊の山、九重山群、それに日本百名山の九州の山などだが、石鎚山、富士山、立山、大雪山旭岳、白山、御嶽山,にも登った。立山では、みくりが池からの登りの山道で、ライチョウの親子4~5羽の群れに会い、一の越から立山三山を縦走して雷鳥沢の雪渓を下った㉕。ライチョウも雪渓も、私以外の参加者7名には初めての経験だった。
㉕ 山の会の立山登山 出発点みくりが池 2003.7
定年後、京大建築学科の20年ほど後輩の片山さんが、福岡で主宰している山の会の行事に参加させてもらうようになった。この会の計画では、山だけでなく温泉や地域の見学も組み込まれていて、登山の楽しみが拡がった。九州の山では、九州百名山の鶴見岳、京丈山、向坂山、犬が岳、求菩提山、国見岳、三方岳、白髪岳など、釈迦院(熊本)の3333段の日本一の石段も登った。九州以外では、鳥海山、月山、岩木山、八甲田山、岩手山、早池峰山、八幡平、それに熊野古道(中辺路大雲取越え)の計画にも加わった。岩手山・八甲田山の山行では、蔦温泉、酸ヶ湯に泊まり、太宰治記念館と三内丸山遺跡を訪れた㉖。酸ヶ湯では、広さ160畳ほど、ヒバ材の天井の高い無柱空間の名物「千人風呂」に入り、縄文時代の三内丸山遺跡では、復元された直径80㎝ほどのクリ材の大型掘立柱建造物などを見学した㉗。
㉖ 岩木山頂上 片山氏の会 2012.9
㉗ 三内丸山遺跡の復元建造物 2012.9
東日本大震災の災害調査報告会が2011年8月に福岡市で開催されたとき、偶然に延岡市在住の河野さんと知り合った。河野さんは大崩(おおくえ)山を含む宮崎・大分の山域を熟知されている。2012年に案内してもらって大崩山(1644m)に登った㉘。この山は九州では珍しく岩峰が連なり、山域には原生林もかなり残っていて、ニホンカモシカが棲息し、九州では絶滅したとされているツキノワグマが生き延びている可能性もある。山麓には巨岩の点在する祝子(ほうり)川が流れ、山女魚の釣り場としても知られている。祖母山・傾山・大崩山を含む山域は、2017年にユネスコの生物圏保存地区に指定された。
㉘ 大崩山の岩峰 2012.10 撮影:河野栄智
九州の最高峰の宮之浦岳には、1999年5月に「山の会」11名で標高1360mの淀川入口から登ったが、2017年10月に海抜0mから再度登頂した。海亀の産卵で有名な「いなか浜」から永田歩道を通り、途中、鹿乃沢の無人小屋に泊まり、永田岳を経て1936mの山頂に達した㉙、㉚。2日間合計で19時間ほどかかり疲労困憊して、「二度と山には登りたくない」と思うほどであった。しかし、海岸から頂上までに出会った人間は1人、猿と鹿は多数、森を通る自然の豊かなコースだった。海抜0mからの登山は、これまで利尻島の鷺泊からの利尻山(1978年)、田子の浦からの富士山(2010年)を単独で行ってきた。今回は傘寿を迎えての登山なので、用心して「山の会」の仲間3人に声をかけて一緒に登ってもらった。
㉙ 永田岳頂上の巨岩 2017.10
㉚ 永田岳頂上から宮之浦岳を望む 2017.10
傘寿の宮之浦岳登山で年齢的な衰えを実感し、次は記念になるような登山で締めくくりたいと考えるようになった。学生時代に最も親しんだ剱岳(2999m)を選び、2019年7月に、「山の会」の仲間と2人で登った。「十字峡横断」から59年振りである。その時の下山に使った早月尾根を、馬場島から標高差2240m、途中、早月小屋に泊まり、2日間13時間で登頂した㉛。この登山では、山岳部の時のように、ザックは重くは無かったが「25分歩行・5分休暇」のピッチを維持して体力消耗を減らし、岩場の登降では「3点支持」で安全確保を意識した。福岡を出発した7月19日は、台風5号が九州に接近中で、梅雨もまだ明けてなく全国的に天気は良くなかった。しかし、7月21日の登頂日は曇ってはいたが視界は割合良く、頂上からは山岳部の時に登った、源次郎尾根、八ツ峰、剱尾根、「十字峡横断」の 鹿島槍ヶ岳・黒部別山・立山の真砂尾根など主要コースが確認できた。能登半島、佐渡島、 富士山も遠望した。早月尾根の登下路では、残雪上にツキノワグマの足跡を見付けたり、霧の中でハイマツの下からライチョウが現れたり、雪の重みに耐えてきた立山杉の巨木を見たり、59年前の積雪期の下山時には分からなかった、原生林の自然の豊かな尾根であることを知った㉜。
㉛ 剱岳2999m頂上 2019.7
㉜ 早月尾根の立山杉の巨木 2019.7
これまで一緒に山や自然を楽しんできた、山岳部の昔の仲間、先輩・同輩・後輩、その後知り合った人達に深く感謝している。「無理せず、急がず、はみ出さず、力まず、ひがまず、いばらない」(比叡山延暦寺の千日回峰行を2度満行した酒井雄哉師の言葉、2013年87歳で没)を心に留めて、これからも自然を楽しみたいと思っている。