梅里雪山三十三回忌
2022年11月3日、紅葉の美しい秋晴れの比叡山延暦寺 元三大師堂ならびに鎮嶺碑前にて、ご家族、京都大学学士山岳会、山岳部、探検部関係者約50名の参詣のもと、梅里雪山三十三回忌の法要が執り行われました。
当京都大学学士山岳会と中国登山協会・雲南省登山協会による日中合同梅里雪山学術登山隊が1991年1月3日から4日に遭難し、日中17名の隊員が帰らぬ人となったことは痛恨の極みでありました。(会長 幸島司郎、事務局)
梅里雪山峰遭難者の三十三回忌に想う
物故会員氏名 日本側:井上治郎、佐々木哲男、清水久信、近藤裕史、米谷佳晃、宗森行生、船原尚武、広瀬顕、児玉裕介、笹倉俊一、工藤俊二 中国側:宋志義、孫維琦、李之雲、王建華、林文生、斯那次里
美しい響きと端正な姿をもつ梅里雪山(メイリシュエシャン、6740m)は中国雲南省の北西端に位置し、チベット自治区に接しミャンマー北部にも近いこの地域の最高峰にしてチベット仏教の聖山です。京都大学学士山岳会は1988年、横山宏太郎を隊長とする先遣隊が資料の乏しいこの地の情況を調査し、1989年には栗田靖之を隊長とするこの地域の学術調査を目的とした科学隊が、次いで日中合同梅里雪山学術登山隊(第一次)が派遣されました。これらの経験と知見の基盤に立って、1990年の秋、中国登山協会、雲南省登山協会と共同して未踏のこの山を目指して井上治郎を長とする学術登山隊を送りました。登山計画は順調に進み、頂上を指呼の間に望む氷河上にキャンプを設営し、登頂をうかがっていた翌年1月3日の夜、思いもよらぬ悲劇が起こりました。想像を絶する大雪崩により日中17名の隊員は帰らぬ人となりました。直ちに編成された両国の精鋭からなる救援隊も厳しい状況に阻まれ、遭難現場に到達できませんでした。この切迫し錯綜した状況の中でご協力をいただいた当時の橋本龍太郎大蔵大臣ならびに同志社大学山岳会に深謝いたします。
その後、日中合同捜索調査隊が現地に派遣され、次いで事故調査委員会が組織され遭難の原因を精査しました。また、下流の氷河を対象に小林尚礼会員を中心にして遺体や遺品の調査、回収が行われました。中国側、特に中国登山協会、雲南省登山協会や地元徳欽県の皆様の暖かいご支援も忘れることはできません。遭難者慰霊碑が比叡山横川や梅里雪山峰を見渡す飛来寺近くと山麓の明永村に建てられ、日中隊員の家族と関係者も訪れています。
この遭難事故から非情な32年の星霜が流れました。この年、雲仙普賢岳が大噴火を起し、ソ連が崩壊しました。往時茫々、夢のまた夢のようです。純な心を持ち、ただひたすらに梅里雪山の頂を目指した日中17名(上記)の仲間を想うと、今も心は千々に乱れます。彼らは今、蓮の花のうてなに乗り、涅槃の境地にあることでしょう。私たちはここに仏教の仕来たりに従い、如上のように三十三回忌を催すことになりました。飛来寺の言い伝えにあるごとく、彼らの魂が比叡山に飛び来たり、ご遺族ともども私たちと語り合える不思議を起してくれることを念じます。
梅里雪山峰第二次学術登山隊総隊長
左右田健次