2015年8月 AACK Newsletterより

京都大学学士山岳会AACKの第14代会長になりました。この機会に会員各位に一言ご挨拶申し上げます。

本年は、1865年7月14日にエドワード・ウィンパーらがマッターホルンに登頂して150年になります。京都大学の歴史を紐解くと、1915年に学生が教員に引率されて北アルプス登山に行って山岳部を結成した、という記載があります。したがって今年は、京大の山登りが始まってちょうど100年の節目の年です。

私事を申し上げて恐縮ですが、1969年(昭和44年)に京都大学に入学しました。学生紛争で東大入試の無かった年です。都立両国高校(3中)の出身ですが、ほかにも日比谷(1中)、立川(2中)、戸山(4中)、西(11中)など、東京府立中学の伝統をひく、当時の受験校である都立のナンバースクールの出身者がそろっていました。

京大山岳部の入部者には2通りのパターンがありました。同回生で山岳部リーダーを務めることになる高木真一は戸山高校の出身です。高校時代から山岳部で山登りをし、京大山岳部に入りたくて京大に来ました。たとえ東大の受験があっても必ず京大に来たはずです。根っからの京大山岳部志向です。わたくしは、高校でこそ山岳部でしたが、京大に行きたいと思ったことは一度もありませんでした。何が何でも東大というわけではなく、それが家から通える最も近い国立大学だったからです。授業料が年間1万2千円の時代です。手っ取り早く親孝行するには公立の学校に行き、最寄りの国立大学に行くのがよい。縁あって京都に来たのですが、大学が封鎖されて行くところが無かった。「しかたがない、京大にも山岳部くらいあるだろう」と思って部室(ルーム)を訪ねました。

今西錦司、桑原武夫、西堀栄三郎らの先輩方とお目にかかって直接に言葉を交わすことのできた最後の世代です。誕生がちょうど半世紀ほど離れています。京大に関心は無く、京大の山登りの伝統にも無知でしたから、こうした方々のお名前は当時まったく存じ上げませんでした。「学部はどちらですか」「山岳部です」というような暮らしが始まるのですが、いちおう文学部の哲学科で哲学を志望しました。せっかく京都に行くのだから、高校の授業で習った「西田哲学でも学ぶのが良いだろう」という18歳の少年の単純な発想です。ちなみに、高校時代はひたすら受験勉強に勤しんでいたので、哲学書などは一冊も読んだことがありません。

日高札内川スキー山行
1972年3月の日高札内川スキー山行(左から高木真一、松沢哲郎、瀬戸嗣郎、成田幸裕)


「遭難から4年目の2回生」というめぐり合わせです。1967年春の日高ペテガリの高山さんの遭難、さらに4年前の穂高滝谷の加納さんの遭難は、いずれも2回生のときでした。二度あることは三度ある。自分たちは遭難から4年目を迎えて2回生になることを常に意識しつつ、すっかり山に夢中になっていました。11月の滝谷を下から遡行、11月のジャンダルム飛騨尾根、3月の魚沼三山縦走、夏の黒部川半月沢初遡行、そうした延長に1973年のヤルン・カンがあります。当時22歳、留年を決めて参加しました。


1973年5月カンチェンジュンガ山群(左端が西峰、別名ヤルン・カン)

1973年7月カラコルムのシスパーレ(別名パス)。当時未踏だった。

1973年7月カラコルムのパス氷河の横断。右端が高木真一、左端が松沢哲郎


松田・上田のヤルン・カン初登頂と直後の松田さんの遭難のあと、高木と2人でカラコルムのシスパーレ峰を試登して日本に戻りました。帰国と同時に受け取ったのが8月の北俣での粟屋君の遭難の報でした。そして山岳部が山行を再開したばかりの11月に槍ケ岳の中ノ沢の雪崩遭難がありました。5名が亡くなりました。その隊の最上級生でしたから、実質的な責任があります。テント地が雪崩にあったわけですから、設営場所の判断を誤ったことは自明です。自らの過ちで多くの岳友を死なせてしまいました。そのとき、高木と帰国後2人で立案した翌1974年カラコルム遠征の申請がちょうど提出されていました。K12の許可が下り、高木は行く決意をし、伊藤君と2人で初登頂して還ってきませんでした。

1973年5月のヤルン・カンから翌年9月のK12まで、二つの初登頂と4つの遭難がありました。その間の1974年5月に、ヤルン・カン隊員の富田さんと浅野さんが奥美濃の山道で自動車が転落して亡くなりました。わずか1年4ヶ月ほどのあいだに11人の山の友人を立て続けに失ったことになります。多くが20歳代で、最年少の佐伯秀夫くんは18歳です。

わたくしの京大山岳部時代を振り返るのと同様に、京大学士山岳会の歴史を自分なりの視点で振り返ってみたいと思います。1931年5月24日に、ヒマラヤ登山をめざす団体として結成されました。今年で創立84年目を迎えます。中国の先哲は人間の一生を四季になぞらえて四期に分けました。青春、朱夏、白秋、玄冬です。京大学士山岳会の歩みを約20年ごとに刻んで振り返ってみます。

京大学士山岳会という法人の青春は、1931年の創立からの約20年間ではないでしょうか。1938年の白頭山遠征、大興安嶺、カブルーへの遠征も計画されました。着実に歩み始めた時期ですが戦争で中断を余儀なくされました。

1952年にAACKが再建され朱夏といえる次の約20年間が始まります。嚆矢は最初のヒマラヤ遠征でしょう。1952年に、日本山岳会へ計画委譲したものですが、今西らのマナスル試登がありました。京大学士山岳会が主催ないし関与した登山・探検としては、1953年アンナプルナ、1955年のカラコルム探検、1958年チョゴリザ、1960年ノシャック、1962年のサルトロ・カンリ、同じ1962年のインドラサン(京大山岳部)、1964年のアンナプルナ南峰(ガネッシュ、京大山岳部)の初登頂に続きます。その延長として1967年に未踏のヤルン・カン8505 mを樋口・松田が試登しました。つまり7000 m峰の初登頂の先に、8500 m峰の初登頂という高い目標を掲げました。登りつめたという感があります。

白秋の始まりは、1973年のヤルン・カンと1974年のK12でしょう。どちらも初登頂とは言いながら、登頂後の遭難に続く苦い結末です。それは同時に京大山岳部の1973年の北俣と槍の連続した二つの遭難以降の時代ともいえます。物事が暗転した。そこから始まる時代です。小規模の遠征隊がいくつか出ましたが、一方で京大山岳部の剱岳赤谷尾根の遭難もありました。



1984年4月カンチェンジュンガ山群(左端が西峰、別名ヤルン・カン)。日本山岳会のカンチェンジュンガ縦走隊に参加した。二度目のカンチェンジュンガは主峰隊のチームリーダーを務めた。

1984年5月カンチェンジュンガにて、後方はジャヌー(別名クンバカルナ)


1984年5月カンチェンジュンガの主峰と西峰の分岐点、標高8300メートル。

1990年5月シシャパンマ山頂(左は中国人隊員・トンロ、右は白沢あずみ)


やがて、1982年カンペンチン、1985年ナムナニ(同志社と中国との合同)、1985年マサコン(京大山岳部)、1988年コンロン山脈6903m峰の初登頂、さらに1989年ムズターグアタと1990年シシャパンマという既登峰の登頂成功がありました。しかし1991年1月雲南省のメイリシュエシャン(カワカブ)の雪崩遭難で、日中合同隊17名が亡くなりました。暗転して始まった時代の最後に、再度の暗転となりました。

白秋が終わって玄冬を迎えます。時期で言えば1991年のメイリの遭難以降の時期です。

1996年のメイリへの再度の試みはありましたが登頂はなりませんでした。1998年7月には明永氷河上に遺体・遺品が現れました。遺体捜索・遺品回収は今に続きます。来年早々、メイリシュエシャンの遭難から25年目を迎えます。この四半世紀、京大学士山岳会としては目だった登山活動は何もしていません。ヒマラヤの初登頂をめざすという意味では、会の使命は果たしたともいえるでしょう。

京大学士山岳会の青春を担ってきた今西・桑原・西堀らの人々は全員がすでに退場しました。会の朱夏を担った当時若手の登山家が今では全員80歳台です。この方々がぽろりぽろりと櫛の歯が抜けるように去っていくでしょう。かくいうわたくしも、前会長の松林さんと同様に1950年生まれですので、還暦を過ぎ定年退職を迎えようとしています。つまり会の白秋の登場人物も、徐々に後景に引いていきます。今に続く玄冬の時代も四半世紀を越えました。以上が、経緯を追ったうえでの法人の現状認識です。

では、京大学士山岳会の命脈はもはや尽きていて、解散する、あるいは立ち枯れれば良いのでしょうか。そうではないと思います。松林前会長のもと、理事・特任副会長という新設の職責をいただいて、京大学士山岳会の将来を考えてきました。このたび会長職を引き受けるにあたり、京大学士山岳会の役割が三つあると考えています。過去と、現在と、将来にかかわる課題です。

第一は、アーカイブの整備です。京大学士山岳会の登山のユニークな特徴は、つねに学術に関わる活動をしてきたことと、その記録を報告書や映像記録として遺してきたことではないでしょうか。先人の遺した膨大な記録があります。まず手始めに、ホームページの整備に着手しました。冒頭に英語のサイトが現れるようにしてあります。日本語を見るにはクリックが必要です。国際的な発信をめざしているからです。AACKを旗揚げしたとき今西さんは29歳でした。彼らの世代に始まって多くの人がバトンを引き継ぐようにして遺してきた「パイオニアワークの足跡」が京大にあります。参加者の多くが20歳代ないし30歳代に成し遂げた、他に類例のないパイオニアワークです。それを後世に、かつ世界に向けて発信していきたい。映像等を駆使して、過去を現代によみがえらせます。それは、じつはかけがえの無い、科学的にもすばらしい試みになるでしょう。たとえば50年という時間をおいて比較することでヒマラヤの氷河の消長を検証できます。ブータンの文化の変容を、60年前―30年前―今、というように辿ることが可能です。新しい、だれもまだ手を付けていない学問の領域が、過去をアーカイブすることから構想できるのではないでしょうか。

第二は、現在与えられている責務をまっとうすることです。京大山岳部は、残念ながら昨年9月に2人の部員を岩井沢の遭難で失くしました。京大学士山岳会には山岳部の卒業生が多数います。山岳部こそが母体となって人材を輩出し、京大学士山岳会の活動を支えてきました。そうした現役山岳部の登山をOBが支援し、必要な手を差し伸べるべきでしょう。つねに一歩下がった位置から、現役の登山活動を助言し支援する役割があると思います。かつて京大は「探検大学」と呼ばれ、とりわけ京大学士山岳会はその登山・探検のフラグシップ(旗艦)としての役割を果たしてきました。その期待は今も変わりません。京都大学に最も永く残る84年の歴史をもつ山岳団体として、人々の付託に応える必要があるでしょう。「時報」や「ニューズレター」の刊行を通じて活動を発信します。そうして存続することで、過去から引き継がれた物の受け皿となることができます。メイリシュエシャンの遺品はまだ氷河にいくばくか残っています。過去の遠征隊の記録、過去におこした物事の責任を、法人としての覚悟をもって受け継いでいく必要があるのではないでしょうか。


2014年3月雲南の梅里雪山(カワカブ峰)


第三は、将来へ向けた継続するちからです。これまで連綿とした人々の努力があったからこそ今日があります。「京都大学ブータン友好プログラム」という事業を松林さんと2人で2010年10月から実施してきました。この4年間で150名を超える京大の教職員学生をブータンに送り込んできました。今年9月には京大山岳部の現役5名とOBがブータンのトレッキングに行こうとしています。こういう活動を京大学士山岳会の旗のもとに取り込んで、次の世代の人材育成をすべきでしょう。成果は、「ヒマラヤ学誌」(松林編集長)というかたちで世に問い、だれでもいつでも無料でPDFをダウンロードできるオープンアクセス化を果たしています。ホームページをぜひ見てください。www.kyoto-bhutan.org

大学院生の育成プログラムとしては、京都大学リーディング大学院「霊長類学・ワイルドライフサイエンス」という事業を、京大山岳部長の幸島さんらと2013年10月から始めています。フィールドワークを基礎にした人材を育成するプログラムです。8つの実習のうち2つはフィールドワークの基礎を学ぶためのもので、笹ヶ峰ヒュッテの無雪期と積雪期の実習です。京大学士山岳会としてそうした人材育成に関わる未来を考えています。ホームページをぜひ見てください。www.wildlife-science.org

京都大学第26代総長は山極壽一さんです。学生時代はスキー部に在籍していました。山が好きで、サルが好きで、東京の立川高校の出身ですが京都大学に来た、というパターンです。京大学士山岳会の名誉会員になっていただくようお願いしたところ快諾をいただきました。来年の総会で正式に承認いただく手配です。これまでもヒマラヤ遠征のたびに京大総長が名誉会員になってきましたが、第21代の西島安則総長を最後に絶えて久しい状況でした。直訳すればAACKは京都学士山岳会のはずですが、創設以来、「京都大学学士山岳会」を正式名称としています。今後は京都大学との連携を密にして、京都大学らしい知的貢献を担える人材の育成を、当会としても担っていきたいと思います。

来年2016年は、日本がマナスルに登頂してから60周年を迎えます。5月9日に初登頂したのは、会員の今西壽雄と、ギャルツェン・ノルブです。記念切手の発行をよく覚えています。また、国民の祝日として「山の日」が制定され、来年8月11日からいよいよ実施されます。山の日制定協議会の副会長として微力を尽くしてきましたが、これをささやかに支援したいと思います。その一環として、去年は「雲南の山と自然」の写真展を松本市美術館と京大時計台で開催しました。今年は「ブータンの山と自然と文化」の写真展を11月から同様に実施します。そうした事業に協賛し、アーカイブ化した資料を活かすことを考えています。一言でいうと、齢は重ねても「それなりに」、という貢献のしかたがあるのではないでしょうか。玄冬という時代を生き抜いていく法人の姿を示して、就任のご挨拶といたします。今後とも、なにとぞよろしくお願いします。



ヒマラヤ学誌No. 17「玄冬の AACK:京都大学の過去 100 年間の登山活動」を読む