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Makalu (8,463m) & Chamlan (7.319m) 1973 02 24
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Makalu from Chitre 1973 02 24
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Orchid 1973 02 24
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Camp Site near Chiso Pani 2,160m 1973 02 26
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Kanchenjunga Range,-Upper Valley of Kaberi Khola 1973 03 05
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Tseram Camp Site 3,800m 1973 03 13
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Peaks of Kanchenjunga from Backside Slope of Tseram 4,550m 1973 03 14
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Peaks of Kanchenjunga from Backside Slope of Tseram 4,550m 1973 03 14
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Peaks of Kanchenjunga 1973 03 14Primula, Yalung Valley 3,700m 1973 03 15
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Upper View of Yalung Valley, near Tseram 3,700m 1973 03 15
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South Face & West Ridge of Yalung Kang from Upper Ramser 4,550m
1973 03 17 |
Yalung Kang from Upper Ramser 4,550m 1973 03 17
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Searching Climbing Route from Upper Ramser 4,550m 1973 03 17,18,19
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Searching Climbing Route from Upper Ramser 4,550m 1973 03 17,18,19
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Kabru (7,315m) from Tseram 1973 03 23
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Yak at Tseram 1973 03 23
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Koktang (6,398m) & West Ratong Glacier from Ramser Plateau 4,470m
1973 03 25 |
Koktang, as a 2 years old birthday present for my son Takeru 1973 03 30
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Talung Peak from BC 5,210m 1973 03 30
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East Shoulder of Jannu (7,710m) from BC 5,210m 1973 04 02
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Talung Peak (right, 7,033m) & Talung Saddle (center, 6,745m)
from BC 5,210m 1973 04 17 |
South Face of Yalung Kang from BC 5,210m 1973 04 18
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West Ridge of Yalung Kang from BC 5,210m 1973 04 18
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East Shoulder of Jannu from CII 6,470m 1973 04 23
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Talung Peak (left) & Kabru (right) from CII 6,470m 1973 04 23
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Ghunsa Village (3,280m) -1 on the Return Caravan from Yalung Kang
1973 05 28 |
Ghunsa Village - 2 on the Return Caravan 1973 05 28
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Takao Matsuda (Lamp) at His House in Kobe before starting for Yalung Kang 1973
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京都大学学士山岳会(AACK)は1973年にネパール・ヒマラヤのカンチェンジュンガ山群にあるYalung Kang (別名Kanchenjunga West Peak, 8,505m、当時世界最高の未踏峰)に遠征隊を送り、5月14日に松田隆雄(ランプ)、上田豊(ポッポ)の両名が初登頂に成功した。しかし彼らは頂上からの下山時にビヴァーク用のツエルト・ザックを吹き飛ばされ、さらに酸素ボンベのデポ地(8,140m)にたどりつけないまま、酸素不足から視力を失い登頂ルートのトレースから外れてしまった。
私はサポート隊員として、浅野潔(パンネ)、サーダーのKarma Sherpaと共にCVを出発したが、すぐに浅野の酸素ボンベがリークして空になってしまい、3人分の荷物を2人で持って登り、デポ地でアタック隊に新しいボンベや紅茶を渡してから、彼らの帰路のためにルート工作をしながら下って、夜9時過ぎにCV(7,950m)に帰着した。
翌日デポ地より上方の小雪面の右に2人の姿を認めた。松田は座り込んで、上田が付近を動いていた。ちょっと目を離した後、松田は見えなくなっていて、上田は左手の雪面をウロウロしていた。快晴で、彼らとは手が届きそうな距離だった。前の晩登頂前から2人との無線交信ができなくなっていたので、必死に声をからして叫び続けたが、彼らには聞こえていないらしく、なんの反応もなかった。私は彼らが遭難したものと判断して、BCの樋口明生(ジャン)登攀隊長に「すぐ救援に上がりたい」と伝えたが、「酸素もなしに疲れているお前達が行ったら、二重遭難になる。下のキャンプから救援隊を上げるから待て」と言われ、一刻を争うのに、と悔しがって粘ったが、どうにもできなかった。
結局、上田は暗くなってから、第1次救援隊の甲斐邦男、森本陸世(グロン)と合流できて、16日未明にCVに収容された。上田は3日も8,200m以上の高所にいたことになる。救援隊は松田の折れたピッケルシャフトと上田が落としたザックを回収していたが、松田は発見できなかった。続いて第2次救援に富田幸次郎、高木真一が上がったが、松田の手がかりは得られず、酸素も隊員の余力も尽きて、捜索は断念せざるを得なかった。
上田はBCで斎藤敦生ドクターに凍傷の応急処置を受け、ネパール軍のヘリコプターでカトマンズに搬送された。6月1日に帰国して手術を受け、両足指すべてと右手4本の指の一部を失った。その後、南極・ヒマラヤの氷河調査に活躍するまでに回復した。
8月11日には京都で、松田の葬儀がとりおこなわれた。AACK内部では、遭難に対する厳しい調査と検討がなされた。悪条件続きによる酸素ボンベの予想以上の消耗が痛かったし、無線機の不通は我々に直接的なダメージを与えた。上田のザックから回収された無線機は、ハンダづけが一カ所破損していた。登頂以前にすでに通じなくなっていたことから見て、落下による衝撃によるより前に不良となっていたか、破損していた可能性が高いと思われたが、詳細は不明である。
私は若手隊員の中では唯一人関西圏在住でなく、募金その他の準備に割ける時間が少なかったので、日本出発前から、「その分、報告書の編集はわしがやる」と宣言していた。
ところが、遠征の翌年には、富田・浅野が美濃の山で車の転落により死亡、さらにはカラコルムのK12峰初登頂後に、高木が頂上から下山中転落死亡という事態が起こった。報告書の原稿も完全ではない時期であり、大変苦労したがなんとか出版し、追って学術報告書も編集・出版した。そしてその後、一切の登山をやめた。思えば山岳部に入ってから、現役6年間毎年平均186日間も山にいた。ヤルン・カンまで13年、かなり激しい登攀を続けてきていた。すでに一児の父であり、大学での研究業績も挙げねばならない時期であった。好き勝手に登山を楽しむゆとりもなく、何よりも、これ以上続けたらおれも死ぬな、と漠然と思うようになっていた。
だが、しょうこりもなく、としか言いようがないが、やがてすぐに今度は外洋ヨットレースにのめりこんでいった。実は山を登りつつも「いつかは海へ」と思い続けていたのだった。休みの日はすべて、それ以外の休暇もほとんど海の上、という生活となった。海抜8,000mの世界から一気にゼロ・メートルへの転落であった。山よりももっと危険で難しい技術・知識・経験が必要とされる世界だった。以来、四半世紀間の間には、第3回太平洋単独横断ヨットレースにチーム「波」の総括マネージャーとして、資金集め・全体計画などすべてを取り仕切り、ヨット「太陽」と操縦者の今田福成君を優勝させたりもできた。しかし、小樽・ナホトカ・レースでは台風に遭い、7人中5人がダウンする中で艇内への浸水をふさぎつつ2人だけで舵にしがみついて切り抜けたこともある。また2人で沖縄へヨットを回航中、奄美大島北方80マイルで舵が破損して30分で沈没、数時間救命筏で漂流後に外国船に救助されたりしたこともあった。
2006年3月末日を以て岡山大学農学部を定年退官した後、中国科学院昆明植物研究所に赴任し、自分のヨットも人にあげてしまった。2010年9月に帰国するまで、同研究所と岡山大学を初めとする日本の諸大学・研究機関との間の共同研究・国際交流をプロモートしてきた。退官直前には中咽頭と食道にガンが同時発生し、手術・治療・再発を繰り返したが、この1年半以上再発を見ていない。天はしばらくの余命を与えてくれたらしい。
先日、1969年から1970年にかけてブータン王国に滞在した際のスケッチをAACKホームページに掲載させてもらったが、ついでにヤルン・カンのスケッチも整理したので、この際、これも投稿させてもらうことにした次第である。なお、これらのうちの一部は前述の上田著「残照のヤルン・カン」にもカットとして採用されたものである。
ブータンでもそうであったが、スケッチのほとんどは水性の同じ太さのサインペンを用いて描いた。描き直すことは出来ない。しかしある程度線の太さや濃淡などを表すことはできる。対象をじっと見て、気持ちの動くままにペンを走らせた。2,3枚はどうにもならないクズなので無視したが、ここに載せたものが私のスケッチブックのすべてある。
座り込んでスケッチの手を動かしていると、岩登りをしている時に、手を伸ばしてつかんだホールドの感触を確かめて一気に体重を移すような、一種のスリルとリズムからくる爽快さを感じたものだった。どちらも私の性にあっているのかもしれない。
なおスケッチのほとんどは、ヤルンの谷に入った荷物の集積基地であるTseram(3,800m)、Ramser(4,470m)、ヤルン氷河内のBC(5,210m)周辺、CII(6,470m)で描かれ、キャラバン中は往路でわずか5枚、帰路のGhunsaで2枚のみである。キャラバンは往路では15人の隊員、30人のシェルパ、500人以上のポーター、現地購入食料を除いたすべてで30トンを超す荷物、という空前の大部隊であった。隊列は前後数キロの長さにわたった。隊員は個人装備のみの軽装でごく短時間で1日の行程を済ませてしまえるので、時間のゆとりはたっぷりとあった。そのわりにスケッチが少なかったのは、私がインド国境のBiratnagarからヤルンの谷に入るまで、専門とするサトイモ科の野生・栽培植物、麦、蕎麦、雑穀などの種子の調査・採集・記録に集中していたからである。帰路のキャラバンでもそれを続けたが、遭難後でもあり荷物の少ない早足の旅で、スケッチに割く時間もなく、それ以上にそんな気持になれなかったからである。
永らくしまいこんでいたスケッチや写真を整理していると、故松田隆雄(ランプ)の写真が出てきた。奇しくも来る5月15日は彼がヤルン・カンで転落、行方不明となった命日に当たる。写真はヤルン・カンの募金活動に行くために、私が彼の神戸の実家に泊めてもらった翌朝、撮ったものと思われる。スケッチの最後に挿入した。
私は改めてスケッチを見て、私たちがヤルンの谷のいかにすばらしい世界に青春の貴重な一時を過ごしていたか、今更ながら感慨にふけった。私のつたない技ではとうてい表現不可能な、荘厳で美しい世界だった。
思えば、ランプだけがひとりで38年間もヤルン・カンの高みからこの氷雪の世界を見つめてきたのだ。さびしかっただろうか。今となっては、以て瞑すべしである。ここに改めて彼の冥福を祈る。吉野コッペ