キナール山群・スピテイ山群の隠れたる未踏峰
(インド・ヒマラヤ)
阪本公一
今年2014年6月13日~7月4日の間、インド・ヒマラヤ北西部のキナール山群からスピテイ山群へ、知られざる隠れた未踏峰の探査に出かけた。
今回のメンバーは、AACKの谷口朗(76歳)、福本昌弘(75歳)、村上正康(78歳)、私阪本公一(74歳)と、静岡の愛峰山の会の小林悦子(71歳)の合計5名の、老齢遠征隊だった。
スピテイ山群はラダック山群のすぐ南隣にあり、キナール山群はそのスピテイ山群の真南に位置する。
キナールとスピテイの西側には、6000m峰をたくさん連ねたラホール山群が位置するが、ラホール山群は、シムラやマナリからの車道によるアプローチが便利で、又パキスタン及び中国との国境問題がそれほど深刻でないので、多くの登山遠征隊がこれまで訪れていて、殆どの6000m峰が登り尽くされている。
一方、キナールやスピテイは、アプローチが不便な事に加え、中国国境が近いので、インド政府による登山規制が厳しく、登山許可がおりないためか、登山記録は極めて少なく、未だに隠れた知られざる未踏峰が数多く残されている。
キナール山群の山に挑戦した日本隊は、1986年の寺沢玲子隊長率いる日印女史合同Jorkanden (6473m)隊と、1997年の今井正史隊長率いるPhawararang (6349m)隊のたった2隊のみ。スピテイ山群には、日本としては7隊が登山記録を残している。
IMFに問いあわせたり、手に入る情報をもとに私なりにまとめたが、キナール山群・スピテイ山群には、まだまだ100座近くの未踏峰が残されていることが解ってきて、今回の探査行を企画することとなった。
キナールは、ヒンズー教文化圏の地域で、リンゴやジャガイモの産地として有名な緑濃い土地である。一方、スピテイは、ラダックと同様チベット仏教文化圏に入り、非常に乾燥した樹木の少ない岩と砂の土地である。
6月13日(金):
関東組の谷口、福本、村上、小林の4名は、成田空港よりタイ航空のTG643に乗り、阪本は関西空港よりTG623に乗って、バンコク空港で5名が合流してTG315に乗り継いで、午後9時にデリーに到着した。
6月14日(土):
午前9時45分に、チャーター車2台で、デリーのホテル・フローレンスを出発して午後4時頃にChandigarhの町に到着。この町は、最近開発されたデリーにつぐ、大きな近代的な都会といわれているらしい。
6月15日(日):
Shimlaに向かう前に、ChandigarhのRock Gardenを見学。石で造った各種動物や人間の人形が、広大な土地の中に展示されている大変ユニークが公園であった。Shimlaまでの街道沿いには、スイカやメロンを売っている屋台が数多く立ち並んでいて、1個150~200円のスイカを, これからの旅のためにガイドのツワン君が購入。午後3時に、ShimlaのHotel Baljeers Regencyに投宿。ホテルの外観は良さそうだが、受付の従業員は極めて横柄な態度で、サービス精神が全くなし。このホテルに着くなり、不愉快な気分になった。夕食までに、Shimlaの町を散策。丘の上のメイン・モールは、ちょうどインドが夏休みに入った週末の日曜日と言う事もあり、家族連れの旅人でごったがえしていた。
6月16日(月):
英領時代は夏の首都となっていた丘の上の町Shimlaから、サトレジ河のRampurまで、標高1,000m以上のつづら折りの急坂を下る。カーブが余りにも多いので, 村上さんと私は車酔い。サトレジ河には、あちこちに水力発電所が目立った。Jyoriと言う町より標高550m程上がったSarahan に午後2時10分到着。Hotel Srikhand の近くの、ヒンズー教の寺院「ビーマ・カリー」に参拝。インドには珍しい木造建築の珍しい寺院であった。
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Sarahan のヒンズー教寺院ビーマカリー
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6月17日(火):
Wangtuより車道は右岸に渡るが、WangtuからBaspa Riverとの合流点までの道が崖崩れのため通行止めとなっていて、標高差600~700m程の高巻き道を迂回させられ、1時間以上余分に時間がかかった。合流点からSanglaまでは、ゴルジュ帯の眼もくらむような断崖絶壁の怖い細い車道で、カーブを曲がるごとに肝を冷やした。正午前にSanglaに到着。昼食後、Chitkulの手前のMostrangあたりまで、車で偵察に行くことにした。
Baspa Riverの右岸には、6000m前後の山々が連なっており、すべて未踏峰だとIMFから確認メールを貰っていた。Sanglaから少し車で走るとSaro GarangとLeomann Mapsに記載された支谷が北にはいっている。橋のたもとの看板には、Bridge Khagola Nalaと書かれてあった。この谷の奥には、P5983, P5990, P6240, P6170, P6080(Daboling)がある筈だが、谷川岳の一の倉沢のような大障壁が手前にかぶさり、その奥は雲で隠れて、6000m近い山頂はまったく望めなかった。 右岸のその次の谷であるGor Garang も、手前の障壁で、奥の山がまったく望めず。この谷の奥には、P6080(Daboling)とP6080(Siro)がある筈だが、何も見えなかった。Rakcham村を越えて3つ目の支谷Nanga Nalaの手前には, ITBP (India Tibet Border Police = インド・チベット国境警察)のチェック・ポストがあった。Baspa River の奥は、中国との国境地帯になっているので、外国人に対するパスポートのチェックも厳しい。このあたりから、Chitkul 村対岸にあるBaspa Riverの左岸の支谷Naradu Garang の奥に聳える, 双耳峰の岩峰P5712が望まれた。Rakcham村の次の支谷 Sushang Nalaの奥にはP6032がある筈だが、全く奥が見えず、諦めてSanglaへ引き返すことにした。
インドには珍しいBaspa River沿いの民家
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Baspa River 左岸の双耳峰P5712 ( Chitkul の南西)
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Baspa River 奥の秀峰の未踏峰
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6月18日(水):
Sanglaを午前7時30分に出発。途中Saro Garang川で再度奥を覗いて見たが、稜線の山々は全く見えず。ゴルジュ帯の厳しい支谷なので、これまで登山隊のアプローチを阻んできたのであろう。9時15分にChitkul村に到着。車道はここまでなので、右岸の道を歩く。ITBPの駐屯所がMulngに最近設置されたようで、車道工事が始まっていた。しかし、車道が未だ完成していないので、ITBPの隊員たちが、Chitkul村から買い出してきた日用品を担いで、駐屯所へ運んでいた。Mulungの先の支谷Tomar Gadには、P6465の未踏峰が見える筈だが、雲にかくれて姿を現さない。P6465の北東に未踏のP6447が位置しており、その更に北東には、1994年の英印合同隊(英国側Chris Bonington隊長、インド側Haris Kapaida 隊長)が、北のTirung Gad 川から初登頂したP6553 (Rangrik Rang)がある筈。Nagast近辺で1時間ほど、雲が消えるのを待っていたが、一向に天候が回復しないので諦めてChitkulに戻ることにした。
13時15分にChitkulに戻り、昼食。昼食後、突然雲が切れて、真っ白な秀麗の未踏峰P6465が姿を現し、その左手奥(北東)にP6447の未踏峰が頭を覗かせていた。今回Baspa Riverに入った大きな目的の一つが、P6465とP6447の山容を確認することだったので、目的の山を目にする事が出来て感無量であった。
支谷のTomar Gad氷河に入って、P6465のアプローチ・ルートを探査することが出来なかったのは残念だが、この魅力的な未踏峰に、近い将来挑戦する若者が現れるのを期待したい。
Chitkulでの感激のひと時を過ごした後、Kalpaへ移動し, KalpaのHotel Grand Shangrilaに17時15分投宿。Kalpaでも雲が天空をおおっていて、P6050(Kinner Kailash)やP6473(Jorkanden)は全く望めず。
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P6465 from Chitkul (by Mr. Taniguchi)
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6月19日(木):
4時30分に起床。ようやく薄明るくなりだしたが、Kinner Kailash 山塊は未だ雲に隠れて見えず。5時20分頃に朝陽が出だし、ようやく山々が見え始めた。
P6050 (kinner Kailash)は、チベットのカイラス山に住んでいるシバの神が、冬期にKinnerやってきて住む山と言われている聖山で、1974年にインド隊が初登頂した山である。
隣のP6473 (Jorkanden)は、1978年にインドArmy隊が初登頂している。1986年に日印女史合同隊(寺沢玲子隊長)が, Tirung Gad川から登路をとり挑戦したが、残念ながら5620mで断念した。
JorkandenにつながるP6240, P5990, P5983, P6080(Daboling), P6080(Siro)が既に登頂されているのかどうかとIMFに問いあわせたところ、いずれの山も未だ登頂記録がないとの回答であった。
ホテルのベランダから朝焼けのKinner Kailash 山塊を眺めて写真撮影をした後、車でNakoへ移動開始。Kalpaの下のRekong Peoは、Kinnerの行政中心地となっているとのことで、スイスの山村のような雰囲気の瀟洒な建物が立ち並び、Raldang(5499m)という裏山が街を見下ろしている。
1時間ほど車で走り、Arenの近くより、Tirung Gad川右岸の6000m峰群が仰げた。P6095 (Bisa Rang), P6248 (Sesar Rang), P6120 (Beshrang), P6209 (Shagchan Rang)が連なり、名前がつけられているので既に登頂されているものと想像していたが、IMFからは登頂記録がないとの回答であった。
Kaから南を眺めると、支谷のTiang Lungpaの右岸の山々であるP6030 (Gangchhua), P5935, P5965の連山が望めた。P6030 (Gangchuua)は、1992年にインドArmy隊が初登頂。
Puhで出会った日本人によると、クンズム峠(4551m)からチャンドラ河に降りる車道が崖崩れのため通行止めになっているとの事で、この方はKajaから引き返してきたそうだ。
我々がKajaに入る迄には未だ十分日数があるので、されに情報を集めた上で、今後の日程を考えることにしよう。
丘の上の村Nakoには、午後2時10分に到着した。Nakoからは、チベット文化圏に入る。Nakoのキャンプ・ホテルに投宿した後、Nako Lake及びNako Gompaを訪れた。インターネット情報では、Nako Lakeは大きな魅力的な湖のような写真がのっていたが、びっくりするほど小さな池であった。
Nako Gompaから中印国境稜線のP6791 (Leo `Pargial)の雄姿が望まれた。この山は、1933年に英国隊が初登頂しているが、国境稜線上の山なので、その後はインドArmyとITBP隊のみが登頂しており、外国隊には登山許可が与えられていない。
Leo Paragialの南に, Kinner 山群の最高峰のP6816がある筈だが、Nakoからこの山を見ることは出来なかった。
Nako Gompa を訪れたあと、小さな売店でミネラル・ウオータを購入。ついでに1,000ルピー紙幣を、100ルピー紙幣に交換して欲しいと、店主に頼んだところ、「勿論OKですよ。日本人ですか?東京、大阪、神戸に友達たくさんいます。貴方どこから来ましたか?」と気さくに声を掛けてくれて、「イチ、ニ、サン、シ、ゴ、・・・」と日本語で100ルピー札を勘定し、「はい、センルピーです」と渡してくれた。どうも「やばい」と感じ、彼の目の前で、私が札を勘定したら、9枚しかない。2度勘定し、「1枚たりない、900ルピーしかないですよ」と店主に突き返したら、「あ、間違っていましたか」と、しれっとして100ルピー札を差し出してきた。油断も隙もない、インド商人の常套手段だ。ガイドのツワン君が、「騙されずにすみましたね」とホッとしていた。
Nakoの対岸の西方には、P6009(Singekang), P6031, P5800 (Talamrang)、P5610 (Hernam Chhang)の連山が翼を広げているのが、ホテルから眺められた。
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朝焼けの Kinner Kailash 山塊
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Tirung Gad 右岸の未踏峰群
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Ka から南を眺めた山々
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Rekong Peo の背後の山 Raldang
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Nako Gompa より眺める P6791 (Leo Pargial)
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Leo Pargial (6791m) from Nako Gompa ( by Mr. Taniguchi)
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Nako 対岸の西方の連山
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6月20日(金):
Nakoを朝7時40分に出発。Leo Pargialの北には、P6040, P6075, P6228, P6173(Ningmad), P6648(Ninjeri)、P6303, P6484, P6215, P6100等の未踏の6000m峰がある筈だが、支谷が峡谷になっていて、奥の方の山々は車道から全く覗くことができなかった。
チェック・ポストのあるSumdoでパスポートを提示した後、午後2時にTaboに到着した。Tabo村の手前から、Taboの北面の裏山の素晴らしい景観が眺められた。
Tabo Gompaは、土壁で出来た平屋建てのこじんまりとしたチベット仏教の寺院だが、ラダックのアルチ・ゴンパに匹敵するカシミール調の素晴らしい仏像や壁画を鑑賞する事が出来た。
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Tabo 村北面の山々
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Tabo Gompa
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6月21日(土):
Tabo から日帰りで、Dhankar Gompaを 訪れた。小さなお寺で、壁画は相当傷んでいた。そのあと、Lalung Gompa を訪問し、素晴らしい仏像を拝観した。Lalung Gompaから南西の方向に、P5902(Kamelang)が眺められた。
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Lalung 眺める P5902 (Kamelang)
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Dhankar Gompa
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6月22日(日):
いよいよPin Riverに入る日だ。Taboをたち、Pin River のKungri Gompa に先ずお参りした。小さな寺院だが、新しい本堂が建設されていた。11時30分にSagnam村に到着。
SagnamはPin Riverの左股・右股の合流点にある、開けた明るい台地の村だ。チベット民家に宿をとったが、2階に客室があり、大きなトイレには水道がまったくでず、トイレ前の200リッターのプラスチック・タンクからその都度バケツに水をくんで、1回ずつ排水をせねばならないという、大変不便な民宿であった。勿論、シャワーも使えず、洗面も使用不可能な状態で、驚きの民宿であった。女性の小林さんには、大変だったであろう。
午後、約1時間掛けてPin River 左股のMud村まで出かけた。Mud 村手前から南東に入っている支谷Kuokti River の奥に,白銀に輝く秀麗なP5903とP5870の鋭鋒が腰を据えていた。小雨もパラパラと振り出し、天候が芳しくないので、Mud村の対岸の台地から引き返した。
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Sagnam村とPin River 合流点の山P5925
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Pin River 左股の支谷 Kuokti River奥の秀峰
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6月23日(月):
Pin River右股は、Leomann MapsではGechangまで車道がついており、数年前からThidimまで車道が延長されたとの噂も聞いていたが、実際はSagnamから20分ほど車で走ったKaa村までしか車は入れなかった。Kaa村に駐車して、8時15分に細い崖道を上り下りして、Pin River右股本流に降り立った。Thidimはすぐ近くに見えるが、一向に近づかない。Gechangを過ぎたあたりから、右股奥にP5975, P6126, P6410, P6507, P6130 の未踏峰群が眺められた。P6507は、非常に魅力的な山だ。
ThidimからKhamengar Valleyを遡行してこの谷を取り巻く未踏峰群を見てきたいと期待していたが、日帰りではとても無理と判断。昼過ぎになったので、Thidimの手前より残念ながら引き返し、午後4時にKaaに帰着した。
Pin River 右股を本格的に探査しようと思えば、少なくともThidimにBCを設営し、3日ほど掛けてKhamengar ValleyとDebsa Nalaを遡行する計画にすべきだったと深く反省。
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Sagnam 村の裏山
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Pin River 右股 Debsa Nala の未踏峰群
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6月24日(火):
再度Pin Riverの左股に出かけることにした。8時にSagnamを出発し、Mud村から歩き始める。広く開けた台地状の左股は放牧に適しており、放牧小屋が何軒かたっていた。 数百頭の山羊の群れが放牧されており、のどかな風景である。左股の正面奥にどっしりとした山容のP5650が腰をすえており、その東にPin-Bhaba Passという峠道が通っている。 ThidimからDebsa East 谷を越えるLalung La からのトレッキング道と合流するあたりで、Mud 村へ引き返すことにした(午前11時45分)。Pin River左股には、6000m峰はないが、開けた明るいとても気持ちのよい谷であった。
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Pin River 左股奥の P5650
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6月25日(水):
7時40分にSagnamをたち、9時20分にKajaに到着。やはりクンズム峠からチャンドラ河におりる車道は、崖崩れが完全に修復されておらず,未だに通行禁止になっているとのホテルの情報だった。当初の予定では、Kajaで3泊してから、クンズム峠からチャンドラ河におりて、ロータン峠越えでマナリヘ経由でシムラに戻る予定であったが、Kajaでの宿泊を2日泊にして、往路をShimlaへ引き返す事にした。
Hotel Spiti Saraiで昼食をとった後、Ki Gompaに参拝した。丘の上に聳えるKi Gompaは、なかなか格好良い。1962年に京大山岳部がラホール山群のインドラサン(6221m)に初登頂しているが、その時の隊長であった小野寺幸之進、隊員の宮木靖雅、富田幸次郎、岩瀬時郎の4名が既に逝去している。 ロータン峠からインドラサンを眺めるのを期待していたが、その機会がなくなったので、Ki Gompa本堂で般若心経を唱えさせて貰い、この4名の冥福をお祈りした。
Ki Gompaの近くのレストランで昼食をとった後、Langia ヘP6303 (Chau Chau)を眺めに出かけた。高原状の村Langiaの裏に、白いChau Chau山が聳えている。この山は1993年にイギリス隊に初登頂され、その後数多くの遠征隊が登っている山である。日本からも群馬高校体躯連盟隊が1998年に登頂している。
Langiaから、対岸のRatang River の奥のP6170 (Ratang Tower)からP6060の稜線が遠望される。Ratang Towerは1993年に、インド隊(Haris Kapadia隊長)が初登頂した山だ。
Ratan Riverの右岸には、カナデアン・ロッキーのマウント・アルバータに似たP5877が腰を据えている。
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Ki Gompa
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Langia より見た P6303 (Chau Chau)
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Langia より眺めた Ratang River の山々
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Langia より眺める Ratang River 右岸の山 P5685とP5877
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6月26日(木):
車酔いと高度障害の影響か、昨夜から阪本は下痢と嘔吐が激しかったので、今日1日は 食事量も減らし、休養する事にした。他の4名は、Rangrikの村の散策を楽しんだ。
6月27日(金)~29日(日):
往路をShimlaまで引き返すことになり、27日はNakoまで。28日はNako からRampurまで行き、29日にShimlaに戻った。毎日車にゆられ、いささか疲労気味。
6月30日(月):
Shimlaの街を、散策。
7月1日(火):
Shimla 発10時30分のトイトレンで、Kalkaヘ。2007年に初めてトイトレンに乗った時は、車中で傘をさして雨をしのがねばならない事に驚いた。その後、このトイトレンは、世界遺産になったらしいが,相変わらず古びた車両で、座っていると腰が痛くなるような硬い椅子は、以前と全く同じであった。おまけに今回も雨が降り出したら、以前と同様に車両の天井から雨が漏りだし、懐かしさと共に驚きのトイトレン経験となった。
午後5時30分に、Kalkaで特急車に乗り換えて、Delhiへ。前菜から、スープに始まり、主食が準備されている車中のサービスに大満足だった。
デリーに2泊して、7月3日の夜11時30発のTG316に乗り、翌朝バンコクで乗り換えて、7月4日の夕刻に帰国した。
今回はキナールからスピテイへと余りにも広大な山域を欲張って探査対象としたため、Baspa Riverの右岸支谷の峡谷奥の未踏峰や、Nakoの北方のスピテイ河左岸支谷の未踏峰群、更にPin Valley右股のKhamengar Valley周辺の未踏峰群の探査の十分な日程を組めなかったのは大きな失敗であった。でも、キナール山群及びスピテイ山群には、未だ知られていない、隠れた未踏峰が数多く実在するのを確信出来た事は,大きな収穫であった。
機会があれば、よりきめ細かい計画で、未踏峰探査に再挑戦してみたい。
今年も, LehのエージェントであるHidden Himalaya のツワン氏と紗智夫人に大変御世話になった。心から感謝を申し上げたい。今回も愉快な仲間との、笑いのたえない楽しい山旅であった。
以上