AACKニューズレターNo. 62 (September 2012)より転載

西堀栄三郎先生(一九〇二〜一九八九)が一九五二年一月〜三月インドおよびネパールから京都の今西錦司先生( 一九〇二〜一九九二)宛に出した一連の手紙約二五通が本来の意味で西堀書簡の名に値するのであるが、帰国後に西堀先生がネパール政府要人宛に出した手紙のコピー、ネパールから受け取った手紙、先生が描いたスケッチやメモ類数点など関連する書類若干をも合わせて、約五〇通弱、総数約三五〇ページを、ここでは一括して西堀書簡と呼ぶ。

古めかしい二穴ばね式の二冊のファイルに綴じた姿で保存され、原則として日付順に配列されているが、書いた日または投函した日が明確でないものが少数あり、スケッチや心覚え風の書付など、どの手紙に同封されていたのかわからないものもある。投函されたすべての手紙が宛先に配達されたかどうか、また、受け取られた手紙がすべてファイルに綴じられたかどうか、今となっては知る由もない。

先生は一九五一年一二月下旬〜五二年三月中旬インドおよびネパールを訪問、ネパールヒマラヤの未踏の巨峰マナスル(八一五六m)の登山許可を取得する交渉をおこない、その委細を旅先のホテルで、薄い手紙用紙に万年筆による手書きで書き、航空便で京都の今西先生宛に発送した。

当時は敗戦後六年、日本はサンフランシスコ平和条約が締結された直後で、外貨準備高は乏しく海外渡航は厳しく制限されていた。AACKは戦中および戦後しばらくの間休眠状態にあったが、創設メンバーの今西先生らは一九五一年秋京大生物誌研究会(FF)を設立してヒマラヤ遠征の実現にそなえる。たまたまインド学術会議に木原均、藤岡由夫両教授が招待された機会をとらえ、FFは日本政府代表団に随行する形で西堀先生をカルカッタおよびニューデリーに送り込むことを企てる。

先生の旅費はヒマラヤ遠征を後援する毎日新聞社が負担することになり、時期的に渡航審議会をとおすことができず、先生はUP通信社特派員の肩書きでインド到着後同社支店から米ドルを受け取る約束のもとに、無一文で五一年末カルカッタのダムダム空港に着いた。ネール首相ほかインド政府高官に会って日印合同のヒマラヤ遠征計画案を打診、その可能性を探って工作を進めるかたわら、ヒマラヤンクラブ会員数氏に接触して遠征登山の実現に資する多種多様の情報を鋭意収集した。先生はカルカッタに着いてから毎日新聞社運動部竹節作太氏の紹介状を添えてネパール体育協会会長クリシュナ・バハドゥール・ヴァルマ氏に手紙を出し、入国への支援を要請した。

待ちかねた同氏からの返信電報が着いてネパール訪問の道が開け、二月一二日パトナから空路カトマンズ入りを果たした。トリ・プフーバン王、コイララ首相、カイザー・ラナ国防相などとの会見に成功し、マナスル登山計画を説明して許可を得られるよう懇請する。王様と関係閣僚の好意的対応を得ることができ、許可申請書を作成して提出した。カトマンズ市内と郊外の寺院その他の史跡を訪ね、ヒマラヤの雪嶺を遠望するなどして、第二次大戦後日本人初となった先生のネパール訪問は滞在九日にして終りを告げたが、王家や政権上層部と良好な関係を築き、登山許可取得に有望な感触を得た電撃的訪問であった。

カルカッタに戻ってから、マナスル周辺の地図の取得に努めたが果たせず、シェルパ雇用の事情を調べるためダージリンを訪ね、また、イギリス、スイスなど各国ヒマラヤ登山計画について情報を収集した。Air SurveyIndia 社の双発航空機をチャーターしてマナスル山域への空撮をおこなう計画をたて、許可申請書提出、資金手当てなど準備は相当具体的に進めたけれども、最終的に許可がおりず、残念ながら実現できずに終った。

帰国後、ネパールからは、クリシュナ氏の日本留学受け入れをめぐるビクラム・シャー皇太子の推薦状、クリシュナ氏から遠征計画の進捗を問い合わせる書簡などがあり、西堀先生からはAACKがマナスル計画をJACに委譲したことを説明し、今西錦司以下数名の先遣隊隊員の経歴を紹介するなど、その後しばらく書簡の往復は続いた。

ちなみに、最初の手紙はバンコク、ラングーンの空港に寄港してからカルカッタ空港に降り立った五一年一二月二九日?付けであり、最後は五三年三月一九日シンガポール発信のネパール人某氏が東京都調布鵜ノ木町の西堀宅に送ったものである。

京大生物誌研究会からマナスル登山計画を引き継いだAACKは、この計画を日本山岳会に委譲することになった。得られる情報がほとんどない未踏査地域に入り登頂のルートを発見するための踏査隊、登山隊別動隊として広域的に活動する科学調査班は西堀先生がカトマンズで政府要人と約束したことで、AACK主導のもとにおこなうことが決定した。五二年八月〜一二月の先遣隊(今西錦司隊長ほか五人)と五三年三月〜八月の科学班(中尾佐助、川喜田二郎の両氏)の二つの遠征がそれである。

西堀書簡は全体で手紙類約五〇通、総数三四九ページあるが、先生が旅先から京都宛出した手紙はすべてきわめて薄い用箋に万年筆で手書きされている。日本帰国後に書いた手紙、およびネパール人からの来信はタイプ印字が多い。この手紙一式はもともと今西錦司先生のもとに保存されていて、いつのころからか今西壽雄氏のもとに移ったのであろう。同氏がマナスル第三次登山隊に参加することになり、それを契機として今西錦司先生から今西壽雄氏へ保管者が変わったという筋書きが考えられる。今西壽雄氏は日本山岳会関西支部長(一九六九〜八五)、続いて日本山岳会会長(一九八五〜八九)を務めたので、この期間に書簡ファイルは関西支部事務室に移されていたものと思われる。一九九五年ごろこのファイルが存在することがわかり、日本山岳会本部からAACKに閲覧、複写の可否について問い合わせがあった。

アーカイブス作成委員会では、JAC関西支部長重廣恒夫氏に事情を説明し、西堀書簡を譲渡していただきたいとお願いしたところ、同氏は快く支部のしかるべき会議に諮ったうえで、私たち委員会に渡してくださったのである。

ここに経緯を記し、感謝を申しあげる次第です。